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金閣寺の歴史を足利義満ら7名の人物でわかりやすく解説

2022/05/19
 
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京都に住みつつ、観光スポットを100ヵ所以上巡ってみました。同じ場所にも何度も行ったり、鴨川でのんびりしたりと京都を満喫。歴史や神社・お寺や日本の知識なども加えて、観光に役立つわかりやすい情報をご提供できればと思います。

このページでは、金閣寺の見どころを中心に、関連する歴史や人物などの知識を含めてわかりやすく紹介していきます。読み終わる頃には、金閣寺の知識が身につき、京都観光がより楽しくなっている事でしょう。

1. 金閣寺の歴史の流れ

金閣寺参道付近の苔

金閣寺の歴史を下記の三段階の流れで解説します。

  1. 西園寺公経(さいおんじ きんつね)時代
  2. 足利義満時代
  3. 応仁の乱以降から現代まで

歴史1.西園寺公経時代の流れ

金閣寺の正式名称は鹿苑寺といい、足利義満が山荘として造営した北山殿が有名ですが、藤原公経(ふじわらのきんつね)の土地に建つ西園寺(さいおんじ)が元になっています。歴史の流れとしては下記のようになります。

  1. 北山とは、藤原公経が入手した土地
  2. 藤原公経は平安時代の権力者藤原氏の子孫で、この敷地内に西園寺という寺を建てた
  3. 自らも西園寺公経と名乗っていたが鎌倉幕府滅亡とともに西園寺家は没落し山荘は荒廃
  4. その後この土地を足利義満が河内の所領と交換し、北山殿と名付けている

このようにして鎌倉時代の終わりと共に荒廃した西園寺家の土地を足利義満が得て、北山殿(きたやまどの)という山荘を建てたことが金閣寺の始まりです。

歴史2.足利義満時代の流れ

西園寺の土地を得た足利義満は北山殿(きたやまどの)と名付けた山荘を営みました。

この北山殿で政治を行い中国から日本国王と認定されるなど、全盛期を迎え死去します。

足利義満の全盛期から鹿苑寺と呼ばれるようになるまでの足利義満時代の流れは下記になります。

  1. 御所に並ぶほど大規模な北山殿で義満は政治を行った
  2. 1394年足利義満は息子足利義持に将軍職を譲る
  3. 1408年足利義満が死去し、妻・北山院日野康子の御所となる
  4. 北山院の死後は足利義満の遺言により禅寺の鹿苑寺となった
  5. 足利義満の法号である鹿苑院殿から鹿苑寺と名付けられた

北山殿で政治を行い室町時代の黄金期を築いた足利義満が死に、北山殿が義満の法号から鹿苑寺となり、舎利殿(金閣)が特徴的なことから通称・金閣寺と呼ばれるようになりました。

歴史3.応仁の乱以降の時代の流れ

鹿苑寺となった金閣寺は、応仁の乱で消失し、その後は再建と焼失を繰り返しながら現在に至ります。

  1. 鹿園寺となった後は応仁の乱で多くの建物が焼失
  2. 江戸時代に再建
  3. 明治時代で一般公開開始
  4. 昭和25年(1950年)に、舎利殿が放火で焼失
  5. 昭和30年(1955年)に再建し、現在に至る

金閣寺の放火事件を題材に、三島由紀夫の小説『金閣寺』や映画『炎上』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』などが生み出されています。

そして現在、金閣寺は世界遺産となっています。
(1994年/平成6年に世界文化遺産に登録)。

ここまでは金閣寺の歴史の流れを解説しました。次に金閣寺に関わった人物を中心に、金閣寺の歴史を解説していきます。

人物2. 足利義満と金閣寺

金閣寺の鏡湖池

ここからは足利義満に関連する歴史がわかる金閣寺の見どころを紹介していきます。

  • 金閣寺は1397年(応永4年)に足利義満が北山殿を建立したのが元
  • 寺名は開基である足利義満の法号鹿苑院殿にちなんで付けられている

足利義満関連の見所1. 鏡湖池

金閣寺の葦原島・畠山石・赤松石・細川石

鏡湖池(きょうこち)は境内の半分以上を占める金閣が浮かぶ池・庭園のことです。

葦原島などの大小の島々、畠山石・赤松石・細川石など各大名が足利義満に奉納した名石、そして衣笠山を借景とした風景が楽しめます。

  1. 足利義満が生まれた当時は南北朝動乱期
  2. 祖父・足利尊氏が全国に守護大名を配置し幕府として武士を統括
  3. 後醍醐天皇と戦い、南朝北朝で敵対、後醍醐天皇の南朝へ寝返る者も多くいた
  4. 幕府では足利尊氏(兄)と足利直義(弟)が対立
  5. 義満の父・足利義詮(あしかがよしあきら)も死に幕府の権威は低下

これらによって守護大名が力をつけていた時代です。3代目・室町幕府将軍としては各守護大名の力が強く幕府の権威が危うい時代でした。

足利義満はその状態から山名・細川・斯波(しば)・土岐(とき)などの巨大な守護大名の家督争いを誘発し、大内義弘(おおうちよしひろ)を仲間にするなどして、大名たちの力を弱体化し、権力を高めていきます。

その結果、鏡湖池に各大名の石が置かれていると考えると、金閣寺の歴史を感じられると思います。

足利義満関連の見所2. 金閣(舎利殿)は足利義満の権力の象徴

金閣は舎利殿のことで、足利義満の権力の象徴とも言われています。

足利尊氏・足利義詮が守護大名をまとめきれずに死去し、権威があるだけで軍事力がない幕府を引き継いだ足利義満。

守護大名が力を合わせると倒されてしまう状態の幕府を立て直し、守護大名を制圧し幕府を再建。

金閣寺、金閣の中

公家の最高位・太政大臣と、武家の最高位・征夷大将軍となり、日明貿易で莫大な富を得て、明にも認められ日本国王と自称するなど、栄華を極めた義満は権力の象徴として金閣(舎利殿)を建てたと言われています。

この歴史を知った上で、舎利殿の造りを見ると、三層構造で公家の上に武家、武家の上に禅宗様の部屋を作り、そこに舎利を安置し、金箔でコーティングするという、足利義満の権力を表す造りになっていることが納得できるのではないかと思います。

三層 究竟頂(くっきょうちょう)は、足利義満を象徴する禅宗様仏殿造風
二層 潮音(ちょうおんどう)は、洞武家を象徴する書院造(武家造)で、武士は公家より上の存在という表現をしている
一層 法水院(ほっすいいん)は、公家を象徴する寝殿造(金箔が貼られていない)で最下層を表現している

そして金閣を代表とする金閣寺は、足利義満が後小松天皇や中国貿易の使者などを招いたと言われる北山文化ゆかりの地になっています。

足利義満関連の見所3. 陸舟の松は足利義満が植えた松

金閣寺の陸舟の松

方丈北側にある陸舟の松(りくしゅうのまつ)は足利義満がお手植えした盆栽。その盆栽が今では樹齢推定600年以上の松に育ち金閣寺に歴史の流れを感じさせる見どころの一つとなっています。

  1. 陸舟という名前は、松が船の形に仕立てられているから
  2. 陸舟の松の種類は五葉松

足利義満関連の見所4. 銀河泉はお茶用の水

銀河泉

銀河泉(ぎんがせん)は足利義満がお茶に使った水です。

足利義満関連の見所5. 厳下水は足利義満が使ったお手洗いの水

巌下水

巌下水(がんかすい)は、足利義満が手を洗ったお手洗い用の水です。足利義満が使うとお手洗いの水にも名前がつき、見どころの一つとなります。

足利義満と金閣寺のまとめ

室町幕府を立て直し、守護大名が鏡湖池に石を奉納し、 武家・公家の最高位と、明から日本の王として認められた権力者として金閣寺を造った足利義満。

陸舟の松や銀河泉、巌下水など足利義満が関わったものが多数残る金閣寺は、まさに足利義満の世界を感じられる歴史スポットと言えるでしょう。

次は西園寺家と金閣寺についてを簡単に解説していきます。

人物2.西園寺家と金閣寺

金閣寺の土地は藤原氏の子孫、藤原公経が西園寺公経(さいおんじきんつね)と名乗って住んでいた土地で西園寺家の別荘があったと言われています。

そして白蛇の塚が西園寺家の守り神と言われています。

安民沢(あんみんたく)は鏡湖池の水源になっており、池には水神の白蛇を祀った「白蛇の塚」が建ています。


金閣寺が建てられる以前は、西園寺家の土地でしたが、その後西園寺家が没落し、足利義満が手に入れ金閣寺を建てました。

人物3. 西笑承兌と方丈

金閣寺の方丈

金閣寺の方丈は、入母屋造(いりもやづくり)という建築様式で、扉に「杉戸絵」が描かれているなどの特徴があります。方丈(ほうじょう)とは、住職の居室のことで、一般的に1丈(約3m)四方の部屋になっています。

  1. 方丈は西笑承兌(さいしょうじょうたい)が1602年(慶長7年)に建てた
  2. 1678年(延宝6年)に、後水尾天皇が新築し、現在に至る
  3. 国の重要文化財に指定された

西笑承兌(さいしょうじょうたい)とは、1548年(天文17年)〜1607年(慶長12年)に生きた人物で、相国寺を再建し、鹿苑僧録となり、豊臣秀吉や徳川家康の政治顧問となった臨済宗の僧です。鹿苑僧録は臨済宗の事実上の最高機関です。

また、文禄の役後の明からの講和交渉である冊封状を豊臣秀吉の前で読み上げたことや、直江兼続から直江状を送られた人物です。

金閣寺の方丈はこのように歴史で活躍した西笑承兌が晩年に建てたということがわかると金閣寺の歴史がおもしろく感じられるのではないでしょうか。

人物4.金森宗和と金閣寺

金森宗和関連の見所1. 夕佳亭

金閣寺の北側には「夕佳亭(せっかてい)」があります。夕佳亭は金森宗和(かなもりそうわ)の茶室です。

金閣寺の夕佳亭

夕佳亭という名前は「夕日に映える金閣が佳い」ということに由来しており、夕暮れ時の景観の美しさから名付けられました。金森宗和が造営し、金森宗和が茶道家のため、夕佳亭には茶室があります。

  • 当時の夕佳亭は明治初期に焼失
  • 現在の夕佳亭は明治時代中期に再建されたもの
  • 金森宗和が建築した当初に近い形で復元されている
  • 夕佳亭の前にある庭にはの足利義政が愛用したといわれている手水鉢と石灯篭が置かれている
  • 夕佳亭の正面にある床柱は「南天の床柱」と呼ばれている
  • 建物は数寄屋造りという様式

金森宗和とは

  • 本名は金森 重近(かなもり しげちか)
  • 大坂の陣に際し父・可重らを批判、これにより廃嫡され京都の宇治に隠棲
  • その後大徳寺で禅を学び、剃髪して「宗和(そうわ)」と号する
  • 宗和流茶道を開き、姫宗和という柔らかく優美な茶風で公家に愛された
  • 公家だけではなく江戸幕府3代将軍・徳川家光にも招かれるなど知名度も高い人物となった
  • 墓所は天寧寺(京都府京都市北区天寧寺門前町)

人物5.足利義政と金閣寺

足利義政愛用の富士形手水鉢

足利義政愛用の富士形手水鉢

富士型手水鉢(ふじがたちょうずばち)は夕佳亭の前に置かれている富士山の形をした手水鉢です。

足利義政が愛用した手水鉢であり、足利義政は金閣寺創建者・3代将軍足利義満の孫で銀閣寺を建てた人物です。

人物6.空海と金閣寺

石造不動明王像と空海

本尊の石造不動明王像は特別公開が行われる以外は非公開となっています。
石造不動明王の特別公開日は下記の通り。

  1. 節分の2月3日
  2. 大文字五山送り火の8月16日

また、石造不動明王は弘法大師・空海によって彫られたと言われています。
空海は遣唐使として中国に渡り密教を持ち帰った人物真言宗の開祖で、京都でも至る所に痕跡を残しています。

金閣寺の御朱印

人物7.宇喜多秀家と金閣寺の不動堂


金閣寺で最古の建物が不動堂です。不動堂は不動明王を祀り、本尊は石造不動明王像で、安土桃山時代に宇喜多秀家により再建され現在に至る歴史を感じられる見どころの一つです。

  1. 1225年(嘉永元年)に建立(鎌倉時代)
  2. 応仁の乱で焼失
  3. 1573〜1592年、宇喜多秀家が再建し現在に至る

宇喜多秀家とは

秀家の「秀」は秀家が元服時に秀吉から与えられたというほど寵愛を受けた人物です。

  1. 宇喜多秀家は豊臣政権の五大老の一人
  2. 秀吉の没後は関ヶ原の戦いで西軍について敗れ流罪となり死去
  3. 秀吉の養女で前田利家の娘である豪姫を正室としている人物

この宇喜多秀家によって金閣寺の不動堂が再建されたということです。

7.金閣寺まとめ

金閣寺は藤原(西園寺)家の土地を足利義満が手に入れ、北山山荘とし金閣寺を造営
その土地には古くは空海が作った石造不動明王、そして足利義政が愛用した富士形手水鉢や、ある不動堂は宇喜多秀家が再建するなどの関わりがあります。
茶の湯の歴史にも関わりがあり、金森宗和の夕佳亭が残るなど、歴史と人物を知ることで金閣寺をより楽しめると思います。

金閣寺の見どころを知りたい方はこちらからどうぞ

金閣寺と比較される銀閣寺、その見どころを知りたい人は下記からどうぞ。
銀閣寺の見どころを知りたい方はこちらからどうぞ

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