ここでは京都にある三十三間堂の歴史を人物と関連する乱(合戦)の流れで簡単にわかるように解説してみました。また、後半は三十三間堂の仏像を関わりなどで簡単に理解できるようにまとめています。簡単にでも歴史や仏像の関連がわかると京都観光の際に楽しめると思うので参考にしてください。
このページの目次
1. 三十三間堂の歴史
歴史1. 後白河上皇と平清盛
三十三間堂は俗称であり、正式には蓮華王院と言われます。この蓮華王院を建てるように命じたのが後白河上皇で、命じられたのが平清盛です。平清盛、後白河上皇を軸に三十三間堂の歴史をみていきましょう。
保元の乱
保元の乱は兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇の戦いです。 弟が天皇になった事で、院政ができなくなり、対立した天皇家の争いです。そこに貴族である藤原頼長(ふじわらのよりなが)と藤原忠通(ふじわらのただみち)の家督争いも含まれます。
さらにこの争いに武士の武力を使う事で勝利しようとした天皇と貴族たち。結果として武士の平清盛の活躍により、後白河天皇が崇徳上皇に勝利しました。後白河天皇は時を経て後白河上皇になります。
ちなみに源義朝は頼朝や義経の父で、この頃は平家の平清盛と共に戦っていました。
平治の乱
平治の乱では後白河上皇が二条天皇と対立します。この平治の乱では平清盛が二条天皇側に加勢し、保元の乱では見方だった後白河上皇と平清盛は対立します。結果として二条天皇・平清盛が勝利し、清盛は太政大臣となり平氏が全盛期を迎えます。
後白河上皇は戦いに敗れ、実力者である平清盛と溝ができますが、平治の乱から1年後、後白河上皇と平慈子の間に子が生まれた事で再び後白河上皇と平清盛の関係が近くなります。慈子は清盛の妻と姉妹で後白河上皇の寵愛を受けており、子ができたわけです。
なので、平家から天皇になるものが出たという事は、武家・貴族の最高位にあった平清盛には、天皇の権力に手が届く魅力があったわけです。これにより、政治的・権力・野望などが入り混じり、再び後白河上皇と平清盛が結びつきが強まりました。
これらの歴史の流れで勝ち抜き出世した平清盛が、蓮華王院を後白河上皇の御所に作たのが三十三間堂の始まりです。
歴史2. 嵯峨上皇により再建、足利義教により修復される
その後焼失し嵯峨上皇によって再建されました。その後も室町時代の6代将軍である足利義教により修復されていきます。足利義教は金閣寺を建てた足利義満の子です。そして銀閣寺を建てた足利義政の父です。このような事がわかると観光の際にも京都の繋がりを感じられるでしょう。
歴史3. 豊臣秀吉と豊臣秀頼
豊臣秀吉の時代、この地は交通の要所であった事や後白河院や平清盛の栄華にあやかるため、豊臣秀吉が 三十三間堂の北部に大仏殿方広寺を造営します。 このことから南大門・太閤屏が残っていたり、三十三間堂周辺には豊臣秀吉ゆかりの豊国神社などが徒歩で行ける距離にあります。
秀吉は死後、豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神格として祀られています。また、三十三間堂の修理は秀吉の子である豊臣秀頼の代まで続きました。大坂冬の陣が起こるきっかけとなった鐘銘事件(しょうめいじけん)の鐘がある方広寺は豊国神社の隣にあり、方広寺も三十三間堂の徒歩圏内(5〜10分程度)にあります。三十三間堂の隣にある養源院などは豊臣秀吉の側室で、浅井長政の長女である茶々(淀殿)が秀吉にお願いして建てたお寺であるなど、三十三間堂一帯は豊臣家と関わりの深い歴史が随所に見える場所になっています。
三十三間堂の歴史まとめ
後白河上皇・平清盛 → 嵯峨上皇 → 足利義教 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼
このように三十三間堂は後白河上皇から始まり、時代を経て豊臣秀頼の代まで修復が行われ、その後も修復などを経て現在に至っていることがわかります。
2. 三十三間堂の見どころ
見所1. 通し矢と矢数帳
三十三間堂は通し矢で有名で、お堂西縁南端から120mの距離を矢を射りその矢数の的中率を競うもので、百射(ひゃくい)・千射などがあり、かなりの数の矢を射るものと言われています。矢数帳はこの矢法の伝承や記録が残っており、最高記録は和佐大八郎が13,053本・通し矢8,133本と記録されています。現在でも三十三間堂の建物に矢が突き刺さっている箇所もあるので探してみると楽しめるかもしれません。