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三十三間堂の歴史と仏像が簡単にわかるまとめ

2019/03/19
 
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京都に住みつつ、観光スポットを100ヵ所以上巡ってみました。同じ場所にも何度も行ったり、鴨川でのんびりしたりと京都を満喫。歴史や神社・お寺や日本の知識なども加えて、観光に役立つわかりやすい情報をご提供できればと思います。

ここでは京都にある三十三間堂の歴史を人物と関連する乱(合戦)の流れで簡単にわかるように解説してみました。また、後半は三十三間堂の仏像を関わりなどで簡単に理解できるようにまとめています。簡単にでも歴史や仏像の関連がわかると京都観光の際に楽しめると思うので参考にしてください。

1. 三十三間堂の歴史

歴史1. 後白河上皇と平清盛

三十三間堂は俗称であり、正式には蓮華王院と言われます。この蓮華王院を建てるように命じたのが後白河上皇で、命じられたのが平清盛です。平清盛、後白河上皇を軸に三十三間堂の歴史をみていきましょう。

保元の乱

保元の乱は兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇の戦いです。 弟が天皇になった事で、院政ができなくなり、対立した天皇家の争いです。そこに貴族である藤原頼長(ふじわらのよりなが)と藤原忠通(ふじわらのただみち)の家督争いも含まれます。

さらにこの争いに武士の武力を使う事で勝利しようとした天皇と貴族たち。結果として武士の平清盛の活躍により、後白河天皇が崇徳上皇に勝利しました。後白河天皇は時を経て後白河上皇になります。

保元の乱
  • 勝者:後白河天皇(弟)
    貴族(藤原忠通)・武士(平清盛・源義朝)
  • 敗者:崇徳上皇(兄)
    貴族(藤原頼長)・武士(源為義・源為朝・平忠正)

 
ちなみに源義朝は頼朝や義経の父で、この頃は平家の平清盛と共に戦っていました。

平治の乱

平治の乱では後白河上皇が二条天皇と対立します。この平治の乱では平清盛が二条天皇側に加勢し、保元の乱では見方だった後白河上皇と平清盛は対立します。結果として二条天皇・平清盛が勝利し、清盛は太政大臣となり平氏が全盛期を迎えます。

平治の乱
  • 勝者:二条天皇
    武士(平清盛)・貴族(藤原通憲)
  • 敗者:後白河上皇
    武士(源義朝)・貴族(藤原信頼)

 
後白河上皇は戦いに敗れ、実力者である平清盛と溝ができますが、平治の乱から1年後、後白河上皇と平慈子の間に子が生まれた事で再び後白河上皇と平清盛の関係が近くなります。慈子は清盛の妻と姉妹で後白河上皇の寵愛を受けており、子ができたわけです。

なので、平家から天皇になるものが出たという事は、武家・貴族の最高位にあった平清盛には、天皇の権力に手が届く魅力があったわけです。これにより、政治的・権力・野望などが入り混じり、再び後白河上皇と平清盛が結びつきが強まりました。

これらの歴史の流れで勝ち抜き出世した平清盛が、蓮華王院を後白河上皇の御所に作たのが三十三間堂の始まりです。

歴史2. 嵯峨上皇により再建、足利義教により修復される

その後焼失し嵯峨上皇によって再建されました。その後も室町時代の6代将軍である足利義教により修復されていきます。足利義教は金閣寺を建てた足利義満の子です。そして銀閣寺を建てた足利義政の父です。このような事がわかると観光の際にも京都の繋がりを感じられるでしょう。

歴史3. 豊臣秀吉と豊臣秀頼

豊臣秀吉の時代、この地は交通の要所であった事や後白河院や平清盛の栄華にあやかるため、豊臣秀吉が 三十三間堂の北部に大仏殿方広寺を造営します。 このことから南大門・太閤屏が残っていたり、三十三間堂周辺には豊臣秀吉ゆかりの豊国神社などが徒歩で行ける距離にあります。

秀吉は死後、豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神格として祀られています。また、三十三間堂の修理は秀吉の子である豊臣秀頼の代まで続きました。大坂冬の陣が起こるきっかけとなった鐘銘事件(しょうめいじけん)の鐘がある方広寺は豊国神社の隣にあり、方広寺も三十三間堂の徒歩圏内(5〜10分程度)にあります。三十三間堂の隣にある養源院などは豊臣秀吉の側室で、浅井長政の長女である茶々(淀殿)が秀吉にお願いして建てたお寺であるなど、三十三間堂一帯は豊臣家と関わりの深い歴史が随所に見える場所になっています。

三十三間堂の歴史まとめ

後白河上皇・平清盛 → 嵯峨上皇 → 足利義教 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼

このように三十三間堂は後白河上皇から始まり、時代を経て豊臣秀頼の代まで修復が行われ、その後も修復などを経て現在に至っていることがわかります。

2. 三十三間堂の見どころ

見所1. 通し矢と矢数帳

三十三間堂の矢

三十三間堂は通し矢で有名で、お堂西縁南端から120mの距離を矢を射りその矢数の的中率を競うもので、百射(ひゃくい)・千射などがあり、かなりの数の矢を射るものと言われています。矢数帳はこの矢法の伝承や記録が残っており、最高記録は和佐大八郎が13,053本・通し矢8,133本と記録されています。現在でも三十三間堂の建物に矢が突き刺さっている箇所もあるので探してみると楽しめるかもしれません。

3. 三十三間堂の仏像と4つの分類

三十三間堂は建物内に仏像が配置されており、千体以上の仏像があるため、仏像好きにはたまらないスポットの1つです。仏像に興味がなくてもインパクトのある千体の仏像は印象に残ると思います。そこで、仏像をより楽しめるように簡単に仏像の知識を解説していきます。仏像は撮影禁止なので文章だけで解説していきますが、わかりやすいと思うので興味のある人は読んでみてください。

仏像には大きく四つの分類があります。如来・菩薩・明王・天部の分類で、これを覚えておくだけでも仏像の見方が変わります。

仏像の四分類
  1. 如来とは、悟りを得た存在であり仏像の最上位に位置付けられる存在です。大日如来、薬師如来、釈迦如来など。
  2. 菩薩とは、悟りを得るために修行をし、人々を苦しみから作り続ける存在です。弥勒菩薩や地蔵菩薩、千手観音菩薩、日光・月光菩薩など。
  3. 明王とは、仏教の教えに従い悪を討つ存在です。不動明王や愛染明王など。
  4. 天部とは、仏教界の守護神で、敵から守る存在です。帝釈天や四天王(広目天・持国天・増長天・多聞天)、八部衆など。

 

このような分類の中で、それぞれ特徴があります。例えば如来グループの中の薬師如来は病気の治癒などの特徴があり、持ち物などがそれを表していたりするなどの特徴です。釈迦如来は装飾品をつけず、粗末な衣装で像が表現されているなど、如来の他、各グループの仏像にある装飾品や持ち物、武器、指の形など、多くの特徴とその意味を知って仏像を見ていくと、また違った京都観光ができるようになるでしょう。

ちなみに三十三間堂では、国宝の千手観音坐像と重要文化財の千体千手観音立像、そして天部など様々な仏像を見ることができますが、写真撮影はどの仏像も禁止になっています。

千手観音坐像と千手観音立像

千手観音坐像は菩薩の位置付けで、悟りを得るために修行中の身であり、人々を救う存在です。仏像としては湛慶の作品とされていて、三十三間堂の中央に配置されている334.8cmの大きな仏像です。千手観音は実は略称で、正式には千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)と言います。

千手観音像はいくつもありますが、千本手があるものは稀で、42本の手を持つものが多くあります。その理由は一本の手で25の世界を救うという事になっているからで、40本の手×25世界=1000という事で、千手観音菩薩となっているとのこと。また、40本以外に2つの手があり、この2つの手で合掌していたり、持ち物を持っています。

さらに千手観音坐像と千手観音立像どちらも両手を合わせるポーズである合掌印となっています。これは平穏な心や静かな心、堅実な心などを表しているポーズで、ピッタリとした手の合わせ方やピッタリとしていない合わせ方などいくつか種類があります。このような部分を見てみると知識がない時よりも細部が見えてくると思います。

三十三間堂の千手観音坐像は湛慶の作品です。湛慶は運慶の長男で、鎌倉時代の人物です。京都では六波羅蜜寺が湛慶やその父運慶など慶派にゆかりの深いお寺で、仏像も観れるので興味のある人は観光してみるのも良いかもしれません。

三十三間堂の池

那羅延堅固と密迹金剛

那羅延堅固(ならえんけんご)と密迹金剛(みっしゃこんごう)は金剛力士像の事で、仁王像とも言われる像です。阿吽を表現している像で、三十三間堂では那羅延堅固が阿形、密迹金剛が吽形となっています。京都では清凉寺や太秦広隆寺、仁和寺などに仁王門があるので、三十三間堂の那羅延堅固と密迹金剛と比べてみると面白いと思います。

風神・雷神像と建仁寺の風神雷神図屏風

三十三間堂内の仏像群の両端に風神と雷神の像が在ります。風神と雷神と言えば同じ京都の建仁寺にある俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が有名ですが、この風神雷神図屏風のモデルになったと言われているのが三十三間堂の風神雷神像です。三十三間堂の風神・雷神の像は、日本の風神雷神像としては最古のものと言われており貴重な木像です。

金毘羅王と安井金比羅宮

三十三間堂の仏像の中に金毘羅王(こんぴらおう)の像があります。これは同じ京都にある安井金比羅宮の金比羅と同じ字。金比羅とは魚神・海神で、クンビーラという言葉からきています。クンビーラは鰐(わに)の意味と言われていて、ガンジス川に住むワニが元になっているとか。そして、クンビーラが日本に伝わる際に、クビラ・クンビーラ・コトヒラ・コンピラなどに変形している事が考えられています。

四天王

  • 東方天(とうほうてん)・・・・・・・・四天王の持国天で東方を守る。
  • 毘楼勒叉天(びるろくしゃてん)・・・・四天王の増長天南方を守る。
  • 毘楼博叉天(びるばくしゃてん)・・・・四天王の広目天で西方を守る。
  • 毘沙門天(びしゃもんてん)・・・・・・四天王の多聞天で、七福神の毘沙門天。北方を守り塔を持っている四天王のリーダー格。

四天王像は多くのお寺にあるので最も目にする機会が多い像の一つです。帝釈天の部下的な位置付けで、仏教の須弥山(しゅみせん)の中腹に住み、四方を守っている守護神が四天王です。須弥山は仏教以外のインド系宗教でも共通する山で、インドの宗教の世界観に共通して登場します。三十三間堂でもそれぞれの像が配置されています。

帝釈天と大梵天と摩醯首羅王

帝釈天(たいしゃくてん)は四天王の上司のような位置付けで、須弥山の頂上に住み、梵天(三十三間堂の仏像では大梵天)と一対となっています。インドのインドラ神が由来になっています。四天王同様に帝釈天も他のお寺でも割と観られる像の一つで、有名なのは東寺の帝釈天です。有名な理由は帝釈天の像がイケメンだから。

大梵天

大梵天(だいぼんてん)は、インドではブラフマー。ブラフマーはブラフマンを神格化したものです。創造神ブラフマーはヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーと言われており、このブラフマーが三十三間堂では大梵天。そして大梵天と一対となっているのが帝釈天で、合わせて梵釈と言われることもあります。

この辺りはバラモン教やヒンドゥー教などから仏教に取り入れられた要素が強いとされ、仏教の開祖である釈迦が悟りを開いた後に悟りを広めるように勧めたのが梵天と帝釈天だったという伝説もあるようです。

摩醯首羅王

摩醯首羅王(まけいしゅらおう)はシヴァ神の事で、別名を「大自在天」とも言います。仏教はバラモン教やヒンドゥー教などの神が混ざってくるので解釈が多々ありますが、宇宙や世界を創造し支配する最高神であり、破壊、破滅を司る神と言われ、大梵天や帝釈天との関わりの深い神です。

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