07. 【歴史】合戦

小牧長久手の戦いの勝敗とその後

小牧長久手の戦いは秀吉と家康の直接対決の合戦です。その勝敗は分かりにくく一時的に勝利する家康と最終的に勝ったと言える秀吉というように、どっちが勝ったのか分かりにくいもの。

また、その後どうなったのか?なども含め、本能寺の変から、羽柴秀吉、徳川家康はもちろん、織田信雄や池田恒興なども含めてわかりやすく解説していきます。

小牧長久手の戦いとは

小牧長久手の戦いは豊臣秀吉と徳川家康の戦いで、信長が死んだあとの覇権争いです。面白いのが戦いに勝った家康が、負けた秀吉の家来になる戦いで、秀吉の交渉の上手さが際立つ結果になった戦いです。

  • この戦いを描いたものとして、小牧長久手合戦図屏風などがある
  • 小牧長久手とは小牧山(愛知県小牧市)と、その東南にある長久手のこと
  • そこで秀吉と家康が戦ったことから小牧長久手の戦いと言われている

小牧長久手の戦いを知るには本能寺の変直後から知るとわかりやすいので本能寺の変から簡単に解説していきます。

1582(天正10年)6月2日 本能寺の変

本能寺の変は天下統一目前の織田信長が家臣である明智光秀に討たれた戦い。その後の徳川家康・豊臣秀吉の動きを見てみましょう。

  • 光秀 = 京で信長を討った
  • 家康 = 堺にいたが秀吉が光秀を討ったため三河へ脱出
  • 秀吉 = 備中高松(毛利と戦中)だったが、明智光秀を討つために京に引き返す

秀吉、家康の動きを次に個別に見ていきます。

1. 羽柴秀吉の動き

  1. 1582(天正10年)6月13日 山崎の戦いで豊臣秀吉が明智光秀を倒す
  2. 1583(天正11年)その後信長の家臣であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒し覇権を確立
  3. 1583(天正11年)9月 大坂城着工する

2. 織田信雄の動き

  1. 織田信長の子である織田信雄(おだのぶかつ)は秀吉と対立
  2. 織田信雄は織田信長の子である自分が天下を取ることを正統と考え、秀吉に勝つために家康に手紙を送った

3. 徳川家康の動き

  1. 本能寺の変の際には堺にいた家康は、秀吉が光秀を討ったため三河へ脱出
  2. その後、三河で地盤を固め、信濃・甲斐を攻略し武田家の家臣を召し抱え、勢力を拡大
  3. 徳川家康は本拠地である浜松城で織田信雄の打倒豊臣秀吉の要請に応えるが徳川家康5ヵ国・豊臣秀吉24ヵ国という勢力差があったため、家康は自国の民を総動員して戦うことを決意
  4. 1584(天正12年)3月28 進軍を開始していた豊臣秀吉・徳川家康が小牧で対陣

以上のように本能寺の変から豊臣秀吉が勢力を伸ばし、それに対して織田信雄をきっかけに徳川家康が豊臣秀吉と対決するという流れになっています。そして、ここから小牧長久手の戦いが始まります。

小牧山が重要拠点

小牧長久手の戦いには重要拠点として小牧山が登場。

  1. 家康の本拠地三河を攻める秀吉軍を小牧山から察知できるため、戦略を重視し家康は初期から小牧山に陣を張った
  2. 戦力に劣る家康だが、小牧山での地の利を活かし好戦
  3. 兵力8万の秀吉軍に対し、徳川家康は武田の騎馬武者なども召し抱え、兵力2万という不利な状況でも上手く戦いを進めていく

長久手で池田恒興と2万の軍が討死

当時、豊臣秀吉の軍は家臣というより横の繋がり的に参戦している武将たちがおり、武田恒興(いけだつねおき)もその一人です。

池田恒興は織田信長の小姓だった人物で織田軍として数々の戦場で活躍し、本能寺の変後は秀吉と合流して明智光秀を討ち、清洲会議に参加するなど織田信長の有力な家臣の一人です。

  1. 豊臣秀吉側に付いてた武将・池田恒興が秀吉に進言
  2. 長久手から2万の別働隊として奇襲を仕掛ける
  3. 小牧山や農民らを上手く使った徳川家康は奇襲を逆手に取って応戦
  4. 池田恒興は討ち死にし、豊臣軍の奇襲は失敗に終わる

小牧長久手の戦の勝敗としては一時的に徳川家康が勝ちますが、ここから劣勢だった秀吉の逆転が始まります。

1584年5月 秀吉が織田信雄を討ちに伊勢へ進軍

1584(天正12年)5月 家康に勝てない秀吉は織田信雄(おだのぶかつ)に矛先を変えます。

  1. 小牧長久手で武が悪くなった豊臣秀吉は、伊勢(三重県)に進軍
  2. これは戦いの首謀者である織田信雄を討つための進軍
  3. 体裁的には織田信雄の求めに応じただけという徳川家康
  4. その大義名分を無くすことを目的としての伊勢への進軍

1584年11月 織田信雄が秀吉と和睦

秀吉の狙い通り織田信雄は秀吉に屈し和睦を結びます。結果として家康は三河へ引き上げることとなります。

  1. 1584(天正12年)11月、織田信雄は徳川家康に相談なく豊臣秀吉と和睦
  2. これにより徳川家康も停戦し三河へ引き上げた
  3. 豊臣秀吉は中国・九州と徳川家康に挟まれることになる
  4. そのため徳川家康を仲間にする必要があるため大坂城へ呼ぶが、警戒した徳川家康は大坂城へ向かわず

1586年4月・5月 秀吉が家康と旭姫を結婚させ、母親も人質に差し出す

織田信雄との和睦で家康を封じ込めた秀吉。
西から九州・中国、東から家康に挟まれる形になるため家康を味方にするため交渉をしていきます。
交渉の手段として秀吉は妹・旭姫(44歳)を離縁させます。
そして家康に嫁がせますが、家康はこれを承諾します。
その後も警戒する家康を動かすために秀吉は母(なか)を人質に出し家康に大坂城へ来ることを促すのでした。

    1586(天正14年)5月14日 浜松城で徳川家康(45歳)と旭姫(44歳)が結婚

  1. 秀吉と家康は親戚となるが家康は秀吉を警戒し大坂城へ来ない
  2. そのため秀吉は家康に九州征服の打ち合わせ打診
  3. その際に秀吉の母・なか(74歳)を人質として家康に送る
  4. 母親を送られても大坂城に行かないのは世間が見ており立場が悪くなる
  5. そのため、家康は10月20日に三河を出発する
  6. 10月26日 家康は大坂城に到着、その夜秀吉はお忍びで家康を訪ねている
  7. 10月27日 秀吉・家康の会見、秀吉が家康に対し上から物を言い、家臣達に家康が服従する姿を焼きつける
  8. これ以降家康は秀吉の家来となりその後も律儀に家来として働く
  9. この対面の後、秀吉の母・なかは秀吉の元に帰された

秀吉が家康を家臣とした後、12月に秀吉が豊臣の姓を賜り太政大臣となり、権力を盤石としました。

その後の豊臣秀吉と徳川家康の関係

家康を味方につけた秀吉は九州や北条氏など、残りの戦国大名を攻め天下統一を果たし、その後死にますが、その際に家康に頼み事をして死んでいきます。

  1. 1587(天正15年)豊臣秀吉が九州を平定
  2. 1590(天正18年)北条氏を滅ぼし天下統一を果たした
  3. 1598(慶長3年) 秀吉が死ぬ際に、息子・秀頼を支えていってほしい、旭姫の菩提を弔うことを家康に頼み死去。
  4. しかし、その後、関ヶ原の戦い、大坂の陣で家康は秀頼を滅ぼし、天下を取った。しかし旭姫の菩提を弔うことは守っている。旭姫は家康と結婚後4年で死に、家康は正室を取ることはなかった

秀吉の死後、関ヶ原、大坂の陣などで豊臣家を滅ぼした家康は、天下統一を果たします。
織田政権、小牧長久手の戦い、天下統一から敵味方を繰り返し、互いに天下統一を果たした2人の英雄の直接対決が小牧長久手の戦いであり、天下統一を決めた戦いとも言える重要な合戦と言えるかもしれません。

小牧長久手の戦いから天下統一までを見ると、勝者は秀吉でもあり、家康でもあるとも言えます。

  1. 小牧長久手の戦いの直接対決では家康が勝者
  2. 織田信雄を講和から大坂城、天下統一では秀吉が勝者
  3. 秀吉の死後豊臣家を滅ぼし幕府を作るまででは家康が勝者

まさに「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という句が似合う勝敗と言えるでしょう。

  1. 信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
  2. 秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」
  3. 家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

小牧長久手の戦いに関する人物解説1 織田信雄

織田信雄(おだのぶかつ)は安土桃山時代の武将で織田信長の次男。
尾張国清洲城で生まれ、信長の元で越前一向一揆討伐や紀伊雑賀攻め、石山本願寺との戦など参加。

清洲会議では信長の後継者に選ばれず、清洲城と尾張・伊賀・南伊勢100万石を受け取ることとなっていました。

その後秀吉と組み織田信長の三男・信孝を討っています。
しかし秀吉と対立し小牧長久手の戦いへと発展します。
結果として秀吉に勝てず講和を結ぶというのが今回の小牧長久手の戦いでの説明です。

  1. 小牧長久手の戦いのその後、織田信雄は秀吉による小田原攻めに従軍
  2. 小田原攻め後、秀吉の怒りを買い下野鳥山に島流し
  3. その後出家し常真と名乗る
  4. それから家康がとりなし秀吉の御咄衆となる
  5. 秀吉の死後は家康から5万石を与えられた

ちなみに御伽衆(おとぎしゅう)は、将軍や大名の側近で雑談、経験談、書物の講釈などをする職業です。

小牧長久手の戦いに関する人物解説2 池田恒興

池田恒興(いけだ つねおき)戦国時代・安土桃山時代の武将・大名で、清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人です。

  • 母の養徳院が織田信長の乳母
  • 織田信秀(信長の父)の側室
  • 幼少期は信長の小姓

戦歴と活躍

池田恒興は幼少期から織田信長に仕え、信長が天下に近づく数々の戦いに参加し活躍していた人物で、姉川の戦いで活躍し犬山城主になることや、荒木村重を討つこと、明智光秀を破るなど織田の主力、秀吉との同僚的な関係もわかりやすい人物です。

  1. 桶狭間の戦い
  2. 美濃攻略
  3. 姉川の戦い(犬山城主となる)
  4. 比叡山焼き討ち
  5. 長島一向一揆
  6. 槙島城の戦い
  7. 花隈城の戦い(荒木村重を破る)
  8. 山崎の戦い(本能寺の変後、秀吉と合流し明智光秀を破る)

また、本能寺の変後、信長の後継者を決める清洲会議では秀吉とともに織田信秀を擁立し、小牧長久手の戦いでは勝利した際に尾張一国を報酬として約束され、秀吉側で参戦しています。

遺体は遠江国新居に葬られた後、京都・妙心寺の慈雲院に改葬されています。

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