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藤原道長はどんな人?何をした人かが簡単にわかる解説

2024/01/23
 
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京都に住みつつ、観光スポットを120ヵ所以上巡ってみました。日本神話・歴史や神社・お寺など、京都に興味がある人に向けて書いてます。

藤原道長は平安時代中期の最高権力者です。このページでは藤原道長はどのような人物だったのかや、どうやって権力を手に入れたのかなどを解説します。

藤原道長はどんな人か

藤原道長の性格は度胸がある人物で次のようなエピソードがあります。

花山天皇かざんてんのうが藤原道隆、道兼、道長と会談話で盛り上がった際に、肝試しをさせます。

その際、道隆、道兼は怖くなり帰ってきましたが、道長だけは目的地の大極殿まで行き、柱を切り取り証拠として持ち帰ったという度胸を示すエピソードが大鏡に書かれています。

そして藤原道長は何をした人なのか?というと、出世競争を勝ち抜き、摂政・関白となり、摂関政治の全盛期を作った人物と言えます。

藤原道長の出世競争から、摂関政治による権力掌握までの流れを簡単に理解するには次の相関関係を見てください。

1. 藤原道長の出世

藤原道長は藤原兼家ふじわらのかねいえの五男。藤原氏の後継は長男であり、五男の道長は本来出世は望めませんでした。

  1. 道隆みちたか:伊周と定子の親、定子は一条天皇の妻
  2. 道綱みちつな
  3. 道兼みちかね
  4. 詮子せんし:円融天皇と結婚し、一条天皇を産む、道長と仲が良い
  5. 道長みちなが

藤原道長の出世競争は、実質的には長男の道隆とその子・伊周 VS 道長とその姉・詮子の戦いです。

そこに一条天皇と花山法皇が関わり、出世の明暗が分かれるようになっています。

それでは順を追ってわかりやすく解説していきます。

2. 兄達の出世と死

995年(長徳元年)、道長の父・藤原兼家ふじわらのかねいえが亡くなると、長男藤原道隆ふじわらのみちたかが摂政職に就きます。

この時、藤原道長は25歳で権大納言ごんのだいなごんの地位にあります。

藤原道長の兄・道隆は大酒飲みで評判が悪い人物で、天皇の成長に伴い摂政のあと、関白職に就いていました。

実務は主に息子の藤原伊周ふじわらのこれちかがこなしていました。

やがて藤原道隆は疫病にかかり死亡します。

藤原道隆が死ぬと、天皇から関白職を命じられたのは次男・藤原道兼ふじわらのみちかねです。この道兼も関白就任後7日後に疫病で亡くなります。

このように都で疫病が流行り、藤原道隆、道兼のほか、多くの貴族が死去します。

しかし藤原道長は疫病にかからず生存したため、自動的にトップの権力者を狙える位置になっていったのです。

3. 藤原伊周との権力争い

道長は関白職に就くことを狙います。しかし、疫病にかからなかった内大臣・藤原伊周ふじわらのこれちかも関白に就くことを狙っていました。

  • 藤原伊周は道長より位が高い内大臣
  • そして伊周の妹・定子ていしが一条天皇の妻
  • 藤原道長の位は権大納言
  • 藤原道長の姉・詮子せんしは一条天皇の母
    詮子は一条天皇の母

伊周の妹は一条天皇の妻である定子ということもあり、はじめ伊周が優勢でした。

しかし、道長は姉・詮子へ頼み、母として一条天皇へ道長を関白にするよう圧力をかけます。

これにより道長は内覧ないらんという関白代理職へと出世するのです。

こうして藤原道兼が亡くなってから3日後に内覧へと出世した29歳の藤原道長は関白不在のため内覧でも最高権力を手中に収めたことになります。

しかし、出世争いに負けた藤原伊周は藤原道長と対立。詮子を呪詛で殺そうとします。また、道長の家来と伊周の弟である隆家たかいえの家来が斬り合い、道長の家来が弓で殺される事件も発生します。しかし、この事件は次のように意外な事件で結末を迎えます。

  1. 藤原伊周は三の君さんのきみに恋をしていた
  2. 三の君には四の君という妹がいた
  3. 花山法皇かざんほうおうは四の君に恋をしていた
  4. 伊周は花山法皇に三の君を取られると勘違いし、弟の隆家に相談
  5. 隆家は家来に命じ、花山法皇を矢で射て脅す
  6. その結果、隆家は出雲国いずものくに(島根県)へ配流となった
  7. 伊周は筑前国ちくぜんのくに(福岡県)の太宰府へ配流となった

このようにして藤原伊周は恋愛からの脅しで処罰され、藤原道長が権力の頂点に辿り着いたのでした。

しかし権力を手中に収めた一年後、なんと藤原道長は花山法皇に願い出て伊周と隆家を復帰させたのでした。

4. 外戚政治で一族の栄華を画策

関白代理と左大臣の地位を得て、藤原道長は地位と権力の頂点に達しました。

次に考えたことは、この地位と権力を孫の代にも続かせたいという藤原一族繁栄の野心でした。

その手段として自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子供を天皇とし、その祖父として政治権力を握る外戚政治を目論みます。

藤原道長には5人の娘がいました。まずは長女・彰子しょうし11歳を一条天皇に嫁がせます。しかしこの一条天皇には定子ていしという妻がおり、定子へ強い愛情を持っていました。

そのため、道長は源氏物語の作者の紫式部を彰子の宮仕みやづかえにし、一条天皇の気を引くことに成功し、後一条天皇を産みます。

そして三条天皇には藤原道長の次女・姸子けんしを仕えさせます。三条天皇は道長とは仲が悪く4年ほどで後一条天皇に位を譲ります。

後一条天皇は藤原道長の娘・彰子が産んだ子です。そのため道長は後一条天皇の摂政となり、天皇の祖父という立場を得ます。このようにして自身の一族に権力を集中させることができたのでした。

さらにこの2年後には三女・威子いしを後一条天皇の妃とし、藤原一族繁栄を確信し次のような和歌を呼んだと言われています。

この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば

また、藤原道長に限らず、荘園を貴族に寄進する豪族が増えていき、自動的に藤原氏のような有名貴族は権力が増す傾向にありました。

荘園とは、一言で言うと税金対策で、豪族たちが国司からの税金取り立てを逃れるため、免税特権を持つ貴族や自社に自分の土地を寄進(財産を寄付する)。これにより、豪族は貴族の荘園を管理し、年貢の一部を貴族に納めるというもの。

このようにして国司に納める多額の税金を、貴族に少額納めることによって、自分の取り分を大きく残そうというのが荘園です。

藤原道長ほどの人物ともなれば、荘園による権力拡大と、摂関政治による朝廷での権力拡大により、この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えばという、まさに栄華を極めた状況になっていたわけです。

5. 道長、極楽浄土を目指す

1071年、51歳の藤原道長は摂政を自分の長男である頼道に譲ります。

藤原頼通は京都にある平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどうを造営した人物です。

頼通に摂政職を譲ったあと、道長は病気がちになり出家します。来世でも最高権力者となるなど、極楽浄土を生きたいと願ったとも言われています。

そのため京(京都)に法成寺を建て、阿弥陀堂で生活していた道長でしたが、天皇に嫁がせた三人の娘が次々と死に、やがて道長も息を引き取ることになります。

こうして平安中期最大の権力者、藤原道長の一生は終わったのでした。

藤原道長が重用した紫式部について知りたい人はこちらのページをどうぞ。

紫式部のページ

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