竹中半兵衛とは何者か|36歳で戦国時代を動かした天才軍師の生涯
このページでは天才軍師・竹中半兵衛の人生を簡単にわかるように解説しています。
起|若き才覚と稲葉山城奪取
竹中半兵衛こと竹中重治は、天文13年(1544年)、美濃国の斎藤道三の家臣・竹中重元の子として生まれました。1556年(弘治2年)には斎藤道三とその息子・斎藤義龍の戦が勃発。斎藤道三はと合戦に負け討死、竹中重元は敗走します。そのため斎藤義龍の軍勢が竹中半兵衛の守る菩提山城を襲います。
この時、半兵衛は13歳かつ女子供を含む20名前後の人数で菩提山城を守ることに成功します。そしてその後、永禄3年頃に家督を継いで菩提山城主となります。
半兵衛は菩提山城を守りましたが情勢を見て斎藤義龍の家臣になります。
その後、義龍が急死し、斎藤家は子の斎藤龍興が家督を継ぎます。そのため半兵衛も斎藤龍興に仕えましたが、龍興が酒色に溺れ政務を顧みなかったため、これを諫める決断をします。
永禄7年、半兵衛は16名という少数の手勢で稲葉山城を占拠するという前代未聞の行動に出ました。この行為は主君を倒すためではなく、政治を正すためのものであり、重治の覚悟と知略を世に示す出来事でした。
そのため半年後に斎藤龍興に稲葉山城を返還し、半兵衛は弟に家督を譲り、自身は菩提山山中で隠棲生活を送るのでした。
承|隠棲と浅井氏での客分時代
稲葉山城を返還した半兵衛は、争いの表舞台から距離を置き、一時的に隠棲生活に入ります。その後、斎藤氏が織田信長によって滅ぼされると、近江国の浅井長政のもとへ身を寄せました。
浅井氏では三千貫の禄を受け、客分として遇されますが、半兵衛は長く留まることを望まず、約一年でこれを辞しています。名利や地位に執着せず、自らの在り方を貫こうとする姿勢が、この時期の半兵衛の特徴でした。
転|秀吉の参謀として天下を動かす
浪人していた半兵衛の才能を惜しんだ織田信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に命じて半兵衛を迎え入れさせました。半兵衛は信長の直臣ではなく、秀吉の与力として仕え、軍略や調略を担う参謀となります。
黒田官兵衛と並び「両兵衛」と称され、中国方面での戦いや信長包囲網の切り崩しに大きく貢献しました。
荒木村重の反乱の際には、信長の命令に背いて黒田官兵衛の嫡男・松寿丸の命を救うなど、人としての胆力も示しています。この時期、半兵衛は知略によって歴史の流れを動かす存在となりました。
結|陣中で迎えた最期と後世の評価
天正7年、播磨三木城包囲戦の最中、竹中半兵衛は病に倒れます。秀吉は京都での療養を勧めましたが、半兵衛はそれを断り陣中に留まったまま36歳で亡くなりました。
その最期は「陣中で死ぬことこそ武士の本望」という言葉に象徴されます。華奢な体つきであったと伝えられる一方、その知略は比類なく、後世には「今孔明」と称されました。
竹中半兵衛は、戦国を生き抜いた稀代の軍師として、今なお語り継がれています。
竹中半兵衛はどんな人?
竹中半兵衛の性格
竹中半兵衛は美濃の斎藤龍興の家臣で、謀反を起こし、織田信長が攻めあぐねていた難攻不落の稲葉山城をたった16〜18名で攻略した天才軍師です。その後羽柴秀吉の部下として活躍。その実力は黒田官兵衛と共に「秀吉の両兵衛」として評価され、「今孔明」とも呼ばれました。しかし病気により若くして亡くなります。竹中半兵衛は短命の天才と言えます。では、竹中半兵衛の言葉をもとにさらに深く人物像を知っていきましょう。
竹中半兵衛の言葉1. 「身分不相応の値段で、馬を買ってはならない。」これは高価な馬を買ったっ場合、戦場で馬を惜しみ判断を誤ることを言っており、人間心理を見抜く合理的な性格がうかがえます。
竹中半兵衛の言葉2. 「要害がいかに堅固であっても、人の心が一つでなければ、要害堅城も物の用をなさない。」戦はチームプレイだということ。自ら稲葉山城を落としさた際の勝因は少数で人の心が一つであり、斎藤龍興側は人の心が一つではなかったことに由来した言葉で、竹中半兵衛が人をしっかりと見ていたことが分かります。
これは織田信長に仕えず、羽柴秀吉に仕えたことも人を見ていたことの表れと言えます。信長は明智光秀の謀反により自刃し、秀吉は天下を取ったという事実から、半兵衛の先見の明の凄さを表した言葉とも言えるでしょう。この他、織田信長の命に背き、黒田官兵衛の息子・松寿丸を救うなども、半兵衛が人や本質を見抜き、冷静に行動していることがわかります。
竹中半兵衛の言葉3. 「ここで小便を漏らしても、軍物語をしている大事な席を立ってはならない。」半兵衛の息子・左京が軍学の講義中にトイレに行こうとした際の言葉。何が大事かということを明確にしていることが分かります。
さらに「人は皆、合戦談を聞く時、大事なことは問わず、聞かないで済むことを質問するから手柄を立てられない。」とも言っており、何が重要なのかを見抜き、感情的になりにくい人物像が見ててきます。
以上から合理的で精神力が高く冷静な性格、そして本質を見抜くような頭の良さがある人物だったことが分かります。
これは竹中半兵衛のあだ名「秀吉の両兵衛」や「今孔明」からも裏打ちされており、当時や後世に三国志の天才軍師・諸葛亮孔明になぞらえて天才軍師として評価されていた人物と言えるでしょう。
