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お寺

嵯峨釈迦堂と呼ばれる清涼寺の紅葉や仏像、アクセスなどを解説

更新日:

清凉寺の歴史

清凉寺は、嵯峨釈迦堂という別称でも親しまれ、中世以降は融通念仏の道場としても知られている浄土宗の寺院です。山号を五台山、御本尊は釈迦如来、創建は、987年(寛和3年)、開基は奝然、開山は奝然の弟子の盛算です。

清涼寺の基本情報
別称 嵯峨釈迦堂
宗派 浄土宗
山号 五台山
本尊 釈迦如来
創建 987年(寛和3年)
開基 奝然(ちょうねん)
開山 盛算(せいさん)は奝然の弟子

棲霞寺と清凉寺


清涼寺は、棲霞寺と清凉寺という2つの寺院が1つになったものです。清凉寺の母体となるのは棲霞寺です。棲霞寺は平安時代初期、嵯峨天皇の皇子である源融の一周忌に、その息子である昇が源融の別荘であった栖霞観を改築して建立し、源融が生前造立を願いながら果たせなかった釈迦三尊像が造られ祀られました。

奝然から盛算へ

清凉寺の歴史は、奝然(ちょうねん)という僧が宋で作らせた釈迦如来立像を祀るために寺院を建立しようとしたところから始まります。しかし奝然の時代には比叡山延暦寺の反対があり、その願いは叶いませんでした。

奝然の死後、弟子の盛算(せいさん)がこの願いを引き継ぎ、1016年(長和5年)に棲霞寺の境内に寺院を建立ました。これが清凉寺の始まりとされています。

応仁の乱による消失

応仁の乱の兵火に会い、棲霞寺と清凉寺の伽藍はすべて焼失してしまいますが、1602年(慶長7年)に豊臣秀頼の寄進により再建されました。その後も嵯峨の大火や大地震によって伽藍は焼失と再建を繰り返しています。

徳川家康により浄土宗に

江戸時代になると、徳川家康が浄土宗に帰依していたことから清凉寺は浄土宗の寺院になりました。棲霞寺は次第に衰退していき、釈迦三尊像と釈迦三尊像を祀る阿弥陀堂を残すのみとなりました。

また、釈迦如来立像は、仏陀存命中にインドの王、優填王がセンダンの木で作らせた像を復刻させたものです。釈迦如来立像はインド、中国、日本と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」や、釈迦の生き写しとされ「生きているお釈迦様」とも呼ばれています。

清凉寺の関連人物

奝然(938年〜1016年)

奝然(ちょうねん)平安時代中期の東大寺出身の僧侶です。俗姓は秦氏。983年宗に渡り、太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰国しました。奝然が宋の太宗に献上した「王年代紀」は「宋史」として日本伝に収録されています。

源融(822年〜895年)


源融(みなもとのとおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族で、嵯峨天皇の息子です。紫式部の源氏物語の主人公光源氏の実在したモデルの一人と言われています。源氏物語は全編54帖あり、そのうち44帖までが光源氏を主人公として描いていますが、そのモデルとなった源融のお墓が清涼寺にあるわけです。

昔、清涼寺の一角は源融の山荘「棲霞観」があったとされる場所でもあり、嵯峨天皇ゆかりの大覚寺は清涼寺から割と近い距離にあるなど、源融を知る事で、清涼寺や大覚寺など嵐山の場所から歴史を感じる事ができるかもしれません。

豊臣秀頼

豊臣秀頼は豊臣秀吉の三男で、秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。秀吉の後継者として兄である秀次と秀頼側で揉め、秀次側は秀吉に自害させられ、秀頼は誓約書を書かせられた上で後継者となるなど、豊臣家の家督を継ぐエピソードなどが残っています。

また、秀吉の死後、家督を継いだ事により、関ヶ原の戦いから大坂冬の陣まで、徳川家康によって次第に追い詰められていき、最終的には自害によってその人生の幕を閉じる事になります。自害した場所や年齢、介錯傷や左耳への障害など、様々な要素から豊臣秀頼とされ、豊臣家にゆかりのある清涼寺に首塚ができたと言われています。

清凉寺の見どころ

清凉寺の御本尊で、国宝に指定されていて本堂内に安置されている高さは162cmです。奝然が宗で模刻させたものを日本に持ち帰ったもので、三国伝来の釈迦像や、生きているお釈迦様とも呼ばれています。大きく渦を巻いた髪、インドグプタ様式の衣、三段に重なった裾という日本の釈迦如来像とは違った異国的な姿が特徴的です。拝観できるのは、毎月8日(11時以降)と、春(4、5月)秋(10、11月)に特別公開の時のみです。

本堂


釈迦如来立像が祀られている清凉寺の本堂は釈迦堂とも呼ばれています。江戸時代初期の嵯峨大火で焼失してしまいましたが、1716年(享保元年)に再建されました。内々陣の宮殿厨子は、徳川綱吉とその母桂昌院の寄進によるものです。中に入ると釈迦や桂昌院に関する品々が展示されていたり、本堂裏手にある庭を見ることもできます。清涼寺が嵯峨釈迦堂と呼ばれるように、釈迦関連の品は面白いものが多く、宗教や歴史好きな人には良い場所になりそうです。

阿弥陀三尊像

源融が作らせた像で清凉寺最古の仏像です。国宝に指定されており、三尊ともヒノキの一木造です。

仁王門


京都府指定の文化財で、清凉寺の正門です。1790年代に再建されました。二層の門になっていて、一層には、仁王像を、二層には十六羅漢像が祀られています。仁王門があるお寺は醍醐寺や太秦広隆寺、仁和寺など、京都にいくつかあるので、仁王像を比べて見ると京都観光の楽しみが増えるかもしれません。

阿弥陀堂

清凉寺の発展に伴って棲霞寺は勢いを失い本殿横にある阿弥陀堂だけが棲霞寺の名残です。棲霧寺の元本堂でもあります。現在の建物は1863年(文久3年)に再建されたものです。かつては阿弥陀三尊像は阿弥陀堂に安置されていましたが、現在は霊宝館に安置されているため、ここにはあるのは別の阿弥陀如来立像です。

霊宝館

霊宝館は寺宝が収蔵されています。阿弥陀三尊像や四天王像、地蔵菩薩立像のほか数多くの国宝や重要文化財が保管されています。公開時期は毎年4、5、10、11月です。

一切経蔵


一切経蔵は輪蔵とも言われ、傅大士父子像や四天王像が配置されている小さな建物です。建物の中心には法輪と呼ばれる手で押しながら回す宗教道具があります。

この法輪は、1回まわすと一切経を読んだのと同じ功徳が得られると言われるもので、回し始め重いですが、回転させて行くうちに軽く回るようになります。法輪を回す体験ができるお寺も少ないので、清涼寺に行ったら回して見ると良いと思います。

清涼寺のあぶり餅と周辺のランチ

清涼寺の中にはあぶり餅を食べることのできる店など2店舗があります。清涼寺の境内で一息つきたい時にはおすすめです。あぶり餅は今宮神社にもあるので、食べ比べてみると京都観光での食べ歩きも思い出に残るかもしれません。それほど印象に残る味ではありませんが、本数が多く癖の少ない味なので季節を問わず一息つくにはちょうど良いかもしれません。

その他、清涼寺の仁王門を出た正面に商店街があり、飲食店もいくつかあります。また、さらにそのまま直進すれば嵐山のメインストリートの商店街へ行く事ができます。二尊院側に歩いて行っても祇王寺や檀林寺の周辺に2〜3店舗ほど飲食店があり、そこから化野念仏寺に進んでもいくつか飲食店があります。
嵐山周辺以外はそれほど飲食店が多いわけではありませんが意外とあるので、食べるものを選ばなければランチには困らないでしょう。

清凉寺へのアクセス

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住所:京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
拝観時間:9~17時(季節によって変動あり)
拝観料:大人400円・中高生300円・小学生200円
霊宝館は4月~5月、10月~11月のみ公開されます。拝観料は400円。本堂拝観との共通券の場合700円です。
駐車場:あり
交通案内:バスの場合、京都バスまたは市バスで「嵯峨釈迦堂前」で下車。

清凉寺の周辺の観光スポット

清凉寺周辺は有名な寺院がたくさんあります。嵐電で嵐山駅を下車し、渡月橋、天龍寺、野宮神社、二尊院、清凉寺、大覚寺と周るルートがオススメです。5.5キロほどありますが、嵯峨嵐山駅近くではレンタルサイクルもあるので、それを利用して周るとスムーズでしょう。

宝筐院

仁王門を出て右手すぐに宝筐院があります。宝筐院は紅葉の名所で、期間限定で特別公開されるお寺の一つです。秋に京都を観光する場合はおすすめのスポットなので、清涼寺に立ち寄った際には宝筐院にも行く事をおすすめします。見事な紅葉が印象的な嵐山観光ができると思います。

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