徳川家康の生涯が簡単にわかる人生年表
このページでは徳川家康の生涯を年代や年齢で分けた人生年表形式で解説しています。徳川家康の有名な戦いや、どんな人なのか、何をした人なのかなどが簡単にわかるようエピソードも交えて年表化しています。
それではまず年表の前に、徳川家康とはどんな人物なのかをざっくり解説しましょう。
- 戦国時代に生まれ、織田家・今川家の人質となり、織田信長の同盟相手となった
- 豊臣秀吉と争い、配下となるが豊臣家を滅ぼし豊臣政権を終わらせた人物
- 征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開き、全国の大名を従えた天下人
- 頭が良く、忍耐強く、人望も厚く、武芸にも秀でていた逸話もある
ではさらに詳しく年表形式で徳川家康を見ていきましょう。
徳川家康誕生〜幼少期は、織田家・今川家の人質になる
徳川家康の幼少期、松平家は、地理的に西は織田家・東は今川家に挟まれています。
松平家は、織田 VS 今川 の対立に挟まれつつ、今川家の支配下で不安定な日々を過ごしていました。その中で、家康は次々に不運に見舞われます。
- 母である於大の方の実家が織田家に寝返る
- 今川家への忠誠を示すため父母は離縁(離婚)
- そんな中、家康は叔父に誘拐され、織田家に人質として売られた
そこから今度は今川家に人質として渡され、青年期を今川家で過ごすことになります。
家康の幼少期を年齢別でさらに詳しく見る(クリックで開閉式解説)
1歳(1542年) 家康(竹千代)誕生
徳川家康は、岡崎城主・松平広忠の長男として生まれます。ちなみに松平家の子は皆、幼名が竹千代です。
6歳(1547年)織田信長と出会う
駿府へ今川義元の人質となっていく途中、叔父により誘拐され、織田家に人質として売られます。織田家の人質時代に、少年期の織田信長と出会い一定の信頼関係が作られます。
8歳(1549年) 今川家の人質となる
- 今川義元の人質となり、太原雪斎のもとで勉学に励む
- 太原雪斎は今川義元を育てた教育係で、頭の切れる軍師の位置づけでもあった人物
- 家康(竹千代)の成長に大きな影響を与えた人物と言われています
10代の家康は、今川家の人質として過ごす
今川義元に人質として捉えられていた家康は、太原雪斎に学ぶことで文武両道の青年に成長します。そんな中、幼少期に出会った織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を倒し、人質生活から解放されるのでした。
- 桶狭間の戦いで織田信長によって今川義元が討たれる
- 若き家康は今川家での人質生活から解放される
- 解放後は三河へ戻り、松平家当主となる
1560年 19歳の家康エピソードをさらに詳しく(クリックで開閉式解説)
19歳(1560年)の家康は、桶狭間の戦いにより人質生活から脱し故郷の三河へ戻ります。三河は三河国(みかわのくに)といい、現在の愛知県東半分のこと。三河は尾張(岐阜)の織田信長と駿河・遠江(静岡)の今川義元に挟まれた地にありました。そのため長年人質生活を強いられていたわけです。
しかし、織田信長が今川義元に勝利し、三河に戻り織田信長と同盟を組むことによって19歳の家康の人生は一気に開けていくのでした。
20代の家康は、清洲同盟を結び支配地を広げた
20代の徳川家康は、織田信長と清洲同盟を結び勢いに乗ります。一向宗や今川家とも戦い勝利し、三河と遠江(とおとうみ)を征服するという家康活躍の時代になっています。
- 21歳で織田信長と清洲同盟を結ぶ
- 22歳で三河を統一し拠点とする
- 28歳で掛川城の戦いで今川義元の子・今川氏真(いまがわうじざね)に勝ち、三河と遠江を支配下に置いた
家康20代を年齢別解説でさらに詳しく見る(クリックで開閉式解説)
21歳(1562年) 清洲同盟
21歳の家康は、織田信長と清州同盟を結び天下統一への邁進します。
- 清洲同盟(きよすどうめい)とは、尾張(愛知県)の織田信長との同盟
- 家康は織田家の人質時代に幼少期の信長と知り合いになっていた
- 信長が今川義元を破り、実質的に家康を開放したのも信長であった
22歳(1563年) 三河・遠江征服
22歳の家康は、三河(みかわ)で起こった三河一向一揆を鎮め、三河を統一します。
- 三河一向一揆は宗教の結束力による強さがあった
- 一向一揆は家康の家臣も敵として加わっていた
- その後、時を経て家康側に戻る家臣もいた
28歳(1569年) 掛川城の戦い
28歳の家康は、掛川城(かけがわじょう)の戦いに勝ち、子供時代から人質として仕えていた今川家に決着をつけます。
- 今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、その後息子(今川氏真)が今川家を継いでいる
- 今川氏真を家康が倒し、今川家を滅ぼした戦いが掛川城の戦い
- 掛川城の戦いの結果、家康は遠江(静岡県)を支配し、20代で三河と遠江の支配者になった
ちなみに今川氏真は、家康が清洲同盟を結んだことに怒り、人質として捉えていた家康の家臣の妻子を処刑。
これにより家康は、今川義元の元の字から名前を取っていた「元康」から「家康」へと改名しています。
30代の家康は、武田家と戦った
30代の徳川家康は、武田信玄に大敗したことや、妻子を処刑するなど苦難の連続を経験します。
しかし、武田勝頼に勝利することや、妻子の武田家との内通を断つなど、着々と天下への布石が打てたという30代でもあります。
- 31歳(1572年) 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
- 34歳(1575年) 長篠の戦いで武田勝頼を撃破
- 38歳(1579年) 妻・築山殿と子・信康を処刑
家康30代を年齢別解説でさらに詳しく見る(クリックで開閉式解説)
31歳(1572年) 三方ヶ原の戦い
- 三方ヶ原(みかたがはら)の戦いは、徳川家康が武田信玄に大敗した戦い
- 甲斐(山梨県)から織田信長を倒そうと尾張(愛知県)へ進軍する武田信玄
- その進路にあった家康の遠江(静岡県)の地で戦いで家康は信玄の策に嵌り大敗する
家康は命からがら逃げ延び、その翌年には武田信玄が病死し、休止に一生得て結果的には天下統一へ前進することになります。
34歳(1575年) 長篠の戦い
- 武田信玄の病死により子の武田勝頼が家督を継ぐ
- 家康は織田信長と協力し、武田勝頼を破る
- これが長篠の戦い
家康38歳(1579年) 築山殿と信康を処刑
- 息子・信康を切腹させ、妻・築山殿(つきやまどの)を暗殺する
- 妻子暗殺は、織田信長に命じられた説と家康から信長に進言した説がある
- 築山殿は今川義元の姪であり、武田家に内通していた疑惑があり処刑されている
40代の家康は、豊臣秀吉と天下をかけて争った
40代の徳川家康は、本能寺の変の織田信長の死で流れが一変し、豊臣秀吉と天下統一を賭けて対決していきます。結果的に豊臣秀吉が天下統一し、家康は関東を支配することになります。
- 家康41歳(1582年) 本能寺の変からの伊賀越え
- 家康43歳(1584年) 小牧・長久手の戦い(豊臣秀吉との天下争い)
- 家康49歳(1590年) 小田原城の戦いで家臣として豊臣秀吉の天下統一に貢献
家康40代を年齢別解説でさらに詳しく見る(クリックで開閉式解説)
家康41歳(1582年) 伊賀越え
- 本能寺の変で信長死去の知らせを聞く
- 堺(大阪府)にいた家康は、伊賀を通って岡崎城へ帰る
- この時、道案内したのが服部半蔵
明智光秀が本能寺で織田信長を自刃させます。織田信長と同盟を結んでいる徳川家康も明智軍の追手が迫る必然性がありました。家康は少人数で堺に来ており、身を守るため三河へ帰ろうとします。
しかし生還できる道がわからず、その際に三河への道案内をしたのが伊賀の忍者・服部半蔵であり、これが伊賀越えです。ちなみに伊賀は現在の三重県北西部で、三河は愛知県東半部。
家康43歳(1584年) 小牧・長久手の戦い
小牧長久手の戦いでは、家康が信長の子・織田信雄と手を組みます。直接対決では豊臣秀吉に勝る勢いで戦況を有利に進めます。しかし、秀吉も家康との直接対決では分が悪いとふみ、織田信雄を攻めることで状況が変わります。
今度は政治的な戦いへと場を移し、大阪城で秀吉の策にハマります。
家康45歳(1586年年) 大坂城で秀吉の配下になる
- 豊臣秀吉は家康を大坂城に呼ぶが家康はなかなか来ない
- そのため家康に、秀吉は妹を人質に送る
- 次に秀吉は母親も人質に送る
これにより、家康は大坂城に出向くことになり、そこで秀吉が自分の配下に入ったということを各戦国大名に認識させる策をとり、見事にはまって秀吉の天下統一に協力することになりました。
家康49歳(1590年) 小田原城の戦い
49歳の家康が参加した小田原城の戦いは、豊臣家の家臣として豊臣秀吉の天下統一に貢献した戦いです。
- 豊臣秀吉の天下統一に最後まで抵抗していた関東の北条家
- この北条家を攻め、秀吉の天下統一に協力
- 家康は江戸城に入り豊臣秀吉の命で関東の支配者となる
ここから豊臣秀吉の時代が続きます。
50代の家康は、関ヶ原の戦いに勝利する
50代の家康は豊臣秀吉が死んだことにより、天下を取ろうと画策します。また、豊臣秀吉側の石田三成らと対立し、秀吉の死後に東軍・西軍に分かれて関ヶ原の戦いへと発展。
その結果、豊臣家からの権力を奪い、徳川中心の世へと大きく舵を切るのが家康の50代となっています。
家康50代を年齢別解説でさらに詳しく見る(クリックで開閉式解説)
家康57歳
- 豊臣秀吉が死去
- 秀吉から家康に遺言が託される
- 五大老のひとりとして、豊臣秀吉死後の政治をまかされる
家康59歳(1600年) 関ヶ原の戦い
- 関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉の死去から2年後に起きた
- 秀吉への忠義や野心など、それぞれの大名の思惑により勃発
- 徳川家康と石田三成を中心に五大老・ご奉行から各大名へと広がり、東軍・西軍に分かれて関ヶ原の戦いが勃発する
結果として関ヶ原の戦いは徳川家康側の東軍が勝利し、実質的に豊臣の世から徳川の世へシフトチェンジするのでした。
60代の家康は、江戸幕府を開く
60代の家康が行ったことは、二条城を建て、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いたこと。ここから幕末までの長い江戸時代が始まります。
家康60代を年齢別解説でさらに詳しく見る(クリックで開閉式解説)
家康61歳(1602年) 二条城を建てる
- 家康は関ヶ原の戦いから2年後、京都に二条城を建てている
- 二条城は御所に近く、京都の拠点にするのが目的
- 二条城は幕末の大政奉還が行われるまで主要な拠点として機能した
二条城では1611年に家康が豊臣秀頼と会見し、1614年には大坂の陣のため出陣するなど、大坂の陣へ繋がる拠点になっています。
家康62歳(1603年) 征夷大将軍となる
- 家康は二条城を建てた翌年、朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府をひらく
- 江戸幕府を開いたものの、依然豊臣家の権力は絶大で犬猿の仲
- そんな中、豊臣秀頼と千姫(家康の孫娘)が政略結婚する
その後、徳川家康は将軍職を子の徳川秀忠に譲り、将軍職は徳川家が継ぐという世襲制を示し、豊臣家を牽制します。ちなみに千姫はこの徳川秀忠の娘であり、徳川家康の孫で、敵対する豊臣秀頼と政略結婚させられる人物です。このようにして家康60代は、70代の大坂の陣へと繋がる流れになっています。
70代の家康は、大坂の陣に勝利し天下統一、そして死去
家康は70代で最後の戦いをします。最後の戦いは大坂の陣であり、関ヶ原の戦い同様、徳川 VS 豊臣という戦いです。家康は豊臣秀吉の妻と子である淀殿(茶々)と豊臣秀頼を滅ぼし、天下を統一を果たしたのでした。その際、家康の孫の千姫は救出されています。
- 73歳(1614年) 豊臣家を滅ぼすため、「大坂冬の陣」を決行
- 74歳(1615年) 「大坂夏の陣」で淀殿と豊臣秀頼を自害に追い込み豊臣家を滅ぼし、同年、武家諸法度を定め天下を統一
- 75歳(1616年) 家康死去。鷹狩りの日に発病した腹痛が原因と言われており、駿府城で生涯に幕を閉じた
天下統一後は武家諸法度や参勤交代など全国の戦国大名を統治する仕組みを作ります。
そして家康の子、徳川秀忠に将軍職を譲ってはいたものの実質的には政治を行い、幕末まで続く約260年間の長期政権である江戸幕府の基礎を作り上げます。
最終的には75歳で病死(腹痛が回復せず死去)し生涯に幕を閉じました。
死後の家康は東照大権現となる
1616年(元和2年)4月2日、徳川家康が駿府城で重臣を集め、下記の遺言を伝えました。
- 死後、亡骸を久能山(静岡県の神社)に納めよ
- その後一周忌が過ぎたら下野国(栃木県)日光に小さな祠を建てて灌頂(かんじょう)せよ
この家康の遺言が次の流れで実行されます。
- 1616年(元和2年)4月17日に家康が死去
- その日のうちに遺体を久能山東照宮に埋葬
- そして遺言通り、日光東照宮へ遺体を移した
これにより、徳川家康は東照大権現(神)として祀られるようになり、家康の死後を含めた一生は幕を閉じたのでした。
家康はなぜ神になろうとしたのか?(クリックで開閉式解説)
なぜ家康が久能山東照宮と日光東照宮に遺体を移したのか?
- 久能山東照宮の本殿の中心に家康が祀られており、久能山では北東向きにお参りする
- そのお参りの先には、久能山東照宮の真後ろ約50kmの位置に富士山がある
- そして、富士山の後ろには日光東照宮が配置されている
以上から、久能山から富士山(不死山)を通過し、日光東照宮で神になる発想があったということが考えられています。
- 家康の御霊(みたま)は肉体から御神体に移ったとされる
- その御神体が日光東照宮の本殿に祀られている
- 本殿の裏には家康の墓があり、その地下には家康の棺(ひつぎ)も埋められている
このようにして富士山を経て久能山東照宮から日光東照宮に祀られるようになった家康は、地理的を緻密に計画していることがわかります。
この地理にもう一つ自分が作った江戸城や江戸の町が関わってきます。
日光にゆかりの無い家康が日光東照宮に祀られた理由と江戸の町の関係
家康は久能山から富士山を経て神として日光東照宮に祀られましたが、この日光東照宮は北極星と重なる位置に造られています。
- 日光東照宮の参道から北極星が見える
- 中国では北極星には宇宙の全てが宿ると言われていた
- 陽明門は北極星の位置と重なる
日光東照宮の参道から陽明門を見ると北極星が直線上に見えるわけです。
この日光東照宮と地理的に直線上に繋がるのが江戸城(江戸の町)であり、北極星→日光東照宮→江戸城(江戸の町)となるわけです。
まとめると、次のようになります。
- 久能山東照宮 → 富士山(不死山) で神になり
- 日光東照宮 → 江戸の町を照らす神
- 関東を照らす、大権現で、東照大権現
以上が徳川家康が生前に構想した遺言の意味ではないかという説があり、神格化された徳川家康の一生は死後まで続くのでした。
徳川四天王で戦国最強とも言われた本多忠勝もわかりやすく書いています。
興味のある人はこちらからどうぞ。