北野天満宮の歴史と梅のかかわりがわかる菅原道真の人生

北野天満宮 入口・参道

天満宮と言えば北野天満宮が有名ですが、この元となるのが菅原道真の伝説です。このページでは北野天満宮の歴史を知るために菅原道真と合わせて解説していきます。

1. 菅原道真の家系は学者の家系

まず、菅原道真の家系は学者の家系で、次のようになっています。

  • 祖父:菅原清公(空海・最長と同時期の遣唐使)
  • 父 :菅原是善(すがわらこれよしと読む。文章博士)
  • 文章博士とは律令制大学で歴史や詩歌を教える教授のことで、2名しかなれない。「もんじょうはかせ」と読む
  • 菅原家には自宅の廊下を教室とした私塾があり、菅家廊下と言われた

菅原家は兄が死に道真が跡取りとなるため、道真も父と同じ文章博士の道へ進むことに。

2. 道真は難関試験を突破していき文章博士となる

北野天満宮の看板

845年(承和12年6月25日)に菅原道真が誕生します。京都御所の隣にある菅原院天満宮神社で生まれたと言われています。子供の頃から頭がよく、祖父も父も学者であり、自宅に私塾もあったことから勉強に縁が強い人物でした。

この頃は平安時代で、中臣鎌足の子孫である藤原氏が政権を握っている時代でした。道真は出世していきますが、やがて藤原氏と対立していきます。

北野天満宮の絵馬

その実力は飛び抜けていて、ひたすら出世していきます。ただし、藤原氏との対立により、無念のうちに死去します。ただ、その後、怨霊となり藤原氏をはじめ策略を企てた者たちの死去が相次ぎ、北野天満宮を作ることにつながっていくという伝説的な経緯で現代までつながっています。

  • 18歳:文章生試験に合格(862年:貞観4年)
  • 23歳:文章得業生試験に合格(上位2名のみが受ける試験)
  • 26歳:方略試に合格(過去230年で65人しか合格者がいない試験)
  • 33歳:文章博士となる(学者の最高職で、国で2人しかなれない)

3. 光孝天皇と藤原基経の怒りを買い、道真は讃岐国へ左遷される

北野天満宮の梅の描かれた石

光孝天皇が藤原基経を可愛がっており、太政大臣という役職を作りますが、当時、太政大臣には役割がありませんでした。そこで光孝天皇は学者に意見を聞いたところ、忖度していた他の学者とは違い、菅原道真は、中国でも太政大臣には具体的な仕事はないと回答しました。

それにより文章博士を解任され、讃岐国(香川県)へ国司として左遷。

4. 宇多天皇が即位し、道真が京へ戻り出世する

北野天満宮の桜とメジロ

この間に京では光孝天皇に代わり宇多天皇が即位。宇多天皇は藤原基経を関白にするも、藤原氏から権力を取り戻したいと思っていた天皇です。

その結果「阿衡(あこう)」という摂政・関白の別称を使った事を利用され、藤原基経は政務を行わなくなりました。阿衡は中国では具体的な政務がないためと解釈(利用)したと考えられています。

これにて政治が機能しなくなり、新天皇である宇多天皇は困ります。

この事態を知った菅原道真は京に戻り藤原基経に意見。これを知った宇多天皇は菅原道真を蔵人頭にし、2年後には参議に任命するなどして、自分の側近として政務を任せていきます。

そして藤原基経は死去し、菅原道真が異例の速度で出世を重ね権力を握っていくようになります。

  • 47歳:宇多天皇により蔵人頭に任命される(藤原基経は同年死去)
  • 49歳:菅原道真が参議となる(入閣)

5. 藤原基経の子・時平の策略

北野天満宮の冬の風景

菅原道真が藤原氏の権力を揺るがすスピード出世をし、藤原基経の子である中納言・藤原時平(当時23歳)が政敵として道真を排除しようと策略を巡らすようになります。

その一つとして、遣唐使として唐へ渡るよう任命されますが、道真は唐の状況を述べるなどし、学者としての能力を使いねじ伏せ遣唐使廃止を実現します。その後も、道真は出世街道を進み、5年間で右大臣まで出世し、左大臣である藤原時平と肩を並べます。

さらに道真は、菅原家の者を要職につけ身の回りを固めます。さらに、宇多天皇の三男である斉世親王(ときよしんのう)に道真の娘を嫁がせ、のちに子供を産みます。このようにして菅原道真 VS 藤原時平の構図は一門の規模となっていきます。

  • 50歳:遣唐使派遣を中止させる
  • 51歳:中納言となる
  • 53歳:権大納言・右大将となる
  • 55歳:右大臣となる

6. 道真死す

北野天満宮の桜と三光門

しかし、上皇となっていた、宇多上皇が出家し、後ろ盾が揺らぎます。さらに藤原時平は醍醐天皇に取り入り、菅原道真を陥れる策略を進めます。その後、901年、菅原道真は突然、右大臣から大宰権帥(だざいごんのそち)となり、罪人として太宰府へ流されることが決定。

菅原道真は宇多天皇へ書面で助けを求めます。この書を受けたのが、宇多天皇の御室御所として有名な仁和寺です。

北野天満宮の梅と枝

そこから宇多天皇は道真を救うべく醍醐天皇へ会いにいきますが、菅原の門下生であった蔵人頭・藤原菅根(ふじわらのすがね)の裏切りによって阻止され、宇多天皇は醍醐天皇に会うことは叶わず。

その結果、菅原道真は左遷。要職についていた菅原一門も全て左遷となり、藤原氏がふたたび勢力を塗り替えます。

菅公御歌

東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花
主なしとて 春を忘るな

という歌を詠んで京から太宰府へと流され、子供は病死し、道真も59歳で死去します(903年:延喜3年2月25日)。

  • 57歳:京から太宰府(九州)に左遷
  • 59歳:菅原道真死去(903年:延喜3年2月25日)

7. 菅原道真の怨霊伝説の始まり

北野天満宮の板の絵

遺言には亡骸を京へ戻さないよう書かれていたとか。そして遺体を運ぶ途中に牛車が動かなくなり、太宰府に埋葬され、その場所が現在の太宰府天満宮。

道真が死去してからというもの、雷はなり天変地異が立て続けに起き治らなかったようで、道真公の怨霊の仕業と噂され始めました。

北野天満宮の紅葉ライトアップ

  • 908年:延喜8年、宇多天皇を止めた裏切り者の藤原菅根が病死します。
  • 909年:延喜9年、藤原時平も39歳で病死。本格的に道真の祟りだと恐怖し、道真を右大臣に戻し、年号を延長に改めたが日照りなど自体は収まらないまま続きます。
  • 930年:延長8年、京都御所の清涼殿に集まり雨乞いについて会議をしているところに、暗雲が立ち込め落雷が発生。この落雷により大納言・藤原清貫が即死。美努忠包は焼死。平稀世も焼死。など5人が死傷。
  • これにより恐怖した醍醐上皇はこの3ヶ月後に46歳で死去。

このような長期間の事件や災害から道真の霊を鎮める声が民衆からも強まり、947年(天暦元年)北野天満宮が建立されました。これにより天神信仰が広まり、各地に天満宮が広がり、全国の12000社にもなっていきました。

北野天満宮 文子天満宮

ちなみにこの菅原道真の祟りを鎮めたのが陰陽師・安倍晴明と言われています。伝説的な話が好きな人は晴明神社のページをご覧ください。安倍晴明を解説しています。

菅原道真関連では下記の神社も参考に読んでみると京都観光が楽しくなると思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です