大坂の陣(大坂冬の陣・大坂夏の陣)をわかりやすく解説
このページでは「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」「大坂の陣の関連人物」について解説しています。大坂の陣では日本一の兵と言われた真田幸村や、徳川家康、そして豊臣秀頼の3人の視点で解説も行い、大坂の陣の流れや武将、なぜ起きたのかなどがわかりやすくなるようにまとめています。
大坂冬の陣
大坂冬の陣の解説では、まず簡単に大坂冬の陣の流れで大局をつかみ、その後大坂冬の陣への布石や、真田幸村など詳細を知ることで大坂冬の陣がわかりやすくなる作りにしています。
大坂冬の陣の基本情報
大坂冬の陣の基本情報
ここでは大坂冬の陣の基本情報を簡単に載せています。ザックリと大坂冬の陣の輪郭がわかります。
1. 大坂冬の陣の期間や兵力
- 時期:1614年(慶長19年)11月9~12月20
- 場所:摂津国(大阪府)大坂城
- 徳川:徳川家康 他20万人
- 豊臣:豊臣秀頼 他10万人
大坂冬の陣は、徳川家康と豊臣秀頼の戦いです。関ヶ原の戦いの後に行われた戦で、大坂冬の陣は夏の陣と合わせて戦国最大の戦いと言われる大規模な戦でした。
- 戦国時代を終わらせた戦国最後の戦いが大坂の陣であり、その前半戦が大坂冬の陣
- 豊臣政権から徳川政権への移り変わりを確定させた戦いの導入部が大坂冬の陣
2. 徳川家康軍
- 徳川家康
- 徳川秀忠・伊井直孝
- 伊達政宗・佐竹義宣・上杉景勝
- 立花宗茂・藤堂高虎ほか
関ヶ原の戦いを征した徳川家康は、征夷大将軍になり、全国の大名を従わせた状態です。この状態で大坂冬の陣が始まります。
関ヶ原の戦いでは豊臣側で敗北した牢人や仕方なく従っている大名も多く、家康は豊臣家を担ぐ大名や牢人がいつ反乱を起こすか気掛かりであり、豊臣家が邪魔で仕方がない状況でした。
そのため、豊臣秀頼を滅ぼそうと画策し、大坂冬の陣を起こしていきます。日本を会社に例えた場合、大規模な派閥争いのようなものです。
3. 豊臣秀頼軍
- 豊臣秀頼
- 大野治長・木村重成・薄田兼相
- 明石全登・後藤又兵衛・塙直之
- 真田信繁・毛利勝永・長宗我部盛親ほか
豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが起き、家康が権力を手中に収めた後も豊臣家は幼少の豊臣秀頼を主君として存続していました。
しかし、65万石の一大名として残っており、実質的な権力は征夷大将軍・徳川家康のものとなっています。
ここで豊臣秀頼の母である淀殿も加え、どのような状況になっているのかを見てみましょう。
- 豊臣秀頼の母である淀殿は打倒家康で、豊臣家再興が望み
- 徳川家康は豊臣家滅亡が望み
- 豊臣秀頼は豊臣家存続が望み
そして、ここに関ヶ原の戦いで主家・主君を失った牢人などが関わってきます。
- 牢人とは、主君の元を離れた武士たちのこと
- 部下を連れている者もいた
- 牢人は現代で言うところの離職者・失業者
関ヶ原の戦いで主家・主君を失い、失業状態となった牢人たちは将来を考えれば、衣食住にも困る状態(日々困っている者もいる)。
関ヶ原の戦いで負けたため、徳川には就けず、豊臣家の募集に応募し、就職先を求めた状態が大坂冬の陣の要因の一つです。
重要なのは豊臣方は、大名ではなく牢人で成り立っている軍ということです。
関ヶ原の戦いで大名はほぼ徳川家康側についたため、豊臣側は、日本各地の牢人を集めて戦力を整えるしかなかったわけです。
これらのことから、大坂冬の陣は現代的に考えれば、徳川側は企業の集まり、豊臣側は失業者の集まりと考えるとわかりやすいと思います。
以上が大坂冬の陣の基本情報です。
それでは次に、徳川家康・豊臣秀頼・真田幸村らそれぞれの視点で見た大坂冬の陣を解説していきます。
徳川家康側の大坂冬の陣への流れ
徳川家康側の大坂冬の陣への流れ
ここでは徳川家康から見た大坂冬の陣をわかりやすく解説します。
1. 家康の不安材料は豊臣秀頼
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康。懸念材料としては豊臣家の血を引く豊臣秀頼。豊臣家再興を目指し全国の各大名が反徳川家として立ち上がることがないかを家康は常に懸念していました。
というのも、関ヶ原の戦いでは十数万の兵が家康反対派であったこともあり、敗れた大名たちは生活水準が下がったものや、地位を失った者、家族や部下を殺された者などが多くおり、さらに家康に不満や恨みを抱いていたからです。
2. 家康の豊臣家弱体化政策
関ヶ原の戦いで敗北した者の恨みをどうしたかというと、徳川家康は、関ケ原の戦い後の論功行賞を行い、豊臣家の領地を削り65万石に減らします。
また、敗北した各大名たちの領地を削り、その領地を徳川に味方した大名たちに与え、敵対勢力を弱体化し、味方となった大名たちとの結束を強めます。
味方を強化し、敵対の可能性が強いものを力で弱体化させる政策をとったわけです。
さらに家康は息子である徳川秀忠に将軍職を譲ります。これにより江戸幕府が徳川家の世襲制であることを世の中に知らしめたのです。
その上で豊臣家との戦いに備えます。具体的には外国から大砲(大筒)を購入。この大砲は大坂の陣で大活躍することになります。
- 領地で味方を強化、敵を弱体化
- 将軍職を譲り世襲制を知らしめる
- 大量の大砲を購入
また、豊臣家には、豊臣秀吉供養のため方広寺に大きな仏像を作ることなどを提案し、豊臣家の財力を削り金銭的な弱体化政策も行っていくのでした。
つまり、徳川家康からすると、恨みを持つものがいつ豊臣家を担ぎ、徳川政権に反乱を起こすのかが心配なため、徹底的に関ヶ原の戦いでの敗北者と豊臣家を弱らせていくようにしていたのです。
3. 家康が豊臣家を滅ぼす理由を作る
徳川家康の豊臣家弱体化政策の中で、豊臣家に対し京都・方広寺に大きな仏像を作る提案をしています。
これは名目上は豊臣秀吉の追善供養のためで、この工事にあたったのが大坂冬の陣で活躍する片桐且元でした。
方広寺の工事が終わると、7月26日に家康から方広寺の鐘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字に対し警告があります。
豊臣側は「家康を分断し、豊臣を主君として楽しむ」という意味があると警告され、豊臣秀頼は大坂城退去を命じられます。
この報告や弁明のため、片桐且元は豊臣秀頼や淀殿と、徳川家康の間を奔走します。
しかし豊臣家は激怒し、大坂城に家康反対派や牢人を集結させます。これにより、徳川家康は豊臣家を危険視し、攻撃を仕掛ける大義名分が条件が揃います。
そして徳川家康は20万の軍を率いて大坂城に攻撃を仕掛けるのでした。
これを方広寺鐘銘事件といい、大坂冬の陣のきっかけとなった大きな要因となります。
ここまでが徳川家康側の大坂冬の陣への流れになります。
次は豊臣秀頼側の大坂冬の陣への流れをわかりやすく解説していきます。
豊臣秀頼側の大坂冬の陣への流れ
豊臣秀頼側の大坂冬の陣への流れ
大坂冬の陣が起こる前、豊臣秀吉が死に、関ヶ原の戦いが起きました。勝利した徳川家康により、豊臣家は220万石を4分の3に減らされ権力を弱められた状態となっていました。
- 1614年(慶長19年)9月
- 徳川家康は江戸幕府を開き、日本中の大名を束ねる最高位の立場
- 豊臣秀頼は65万石の一大名
豊臣秀頼側の大坂冬の陣への流れ2
この状況で方広寺鐘銘事件が起きます。方広寺鐘銘事件とは、方広寺の鐘に徳川を分断し、豊臣を主君として楽しむ意味の「国家安康」「君臣豊楽」の文字
があると徳川家康が警告したものです。
これにより徳川家康が豊臣家(豊臣秀頼・淀殿)に対して、大坂城を出るよう要求を出します。退去しなければ攻め滅ぼすという選択肢を提示。
淀殿は怒り家康の要求に反対するよう秀頼に意見します。しかし、秀頼は淀殿の政治介入をひどく叱ったとのこと(浅井一政自記より:浅井一政は豊臣秀頼の側近で大坂の陣を生き延びた人物の記録)。
つまり次のようになります。
- 家康は豊臣家を滅ぼすのが望み
- 淀殿は徳川家を滅ぼすのが望み
- 秀頼は豊臣家再興が望み
ここで豊臣家と徳川家の連絡役を務めていた豊臣家家老の片桐且元が豊臣家を裏切り、家康側につきます。
片桐且元は下記のように大坂冬の陣で大きな役割を果たす人物です。
- 豊臣秀頼から徳川家康との和平交渉の命令を受けていた
- 大坂冬の陣のきっかけとなる方広寺の工事を完了させた
- 大坂冬の陣では堤防建築を家康に教えた
- 大坂城砲撃時に家康に淀殿らの部屋の位置を教えた
など、豊臣攻略に重要な役割を果たす人物です。
このように片桐且元の裏切りや方広寺鐘銘事件、これにより和平交渉を望んでいた豊臣秀頼は、徳川家康と戦う決断を下すことになります。
豊臣秀頼側の大坂冬の陣への流れ3
徳川家康と戦うため、豊臣秀頼は全国の大名を味方に引き入れようとします。しかし関ヶ原の戦いで多くの大名は徳川家康に服従したため、大名はなかなか集まりません。
そのため、豊臣秀吉の残した莫大な財産を使い、関ヶ原の戦いで主家・主君を失った失業状態の牢人たちを集めます。
全国から恩賞目当てで集まる牢人たち。
そしてその中でも豊臣側から味方になってほしいと協力要請を出された牢人がおり、その一人が真田幸村(真田信繁)でした。
真田幸村は父・昌幸と共に、徳川家と戦い負け知らずの強者です。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠や榊原康政(徳川四天王)、本多正信など38000の軍を翻弄し、関ヶ原本戦に徳川秀忠を遅刻させたという実力を持つ人物。しかしこの真田幸村も関ヶ原の戦い以降、領地を失い牢人となっていました。
その真田幸村を味方につけた豊臣秀頼。秀頼のもとで真田幸村が次のような作戦を立てます。
- 大坂城から出陣し、京都・奈良を制圧
- 次に大津・宇治で徳川軍を迎え撃つ
これに反対した豊臣秀頼は、次のような策を出します。
- 大坂城に立て篭もり徳川軍の攻撃を防ぐ
- その後、攻めあぐねる徳川に豊臣家の存続の講和を持ちかける
武功をあげて出世したい牢人代表の真田幸村と、講和を結び豊臣家を存続させたい豊臣秀頼の意見がぶつかったのでした。
しかし豊臣秀頼の籠城策は、大坂城を四方から囲まれると補給が絶たれる弱点がありました。これを豊臣秀頼が大坂城を淀川の水で埋めることで逆に鉄壁の防壁を作ることを実現します。
- 大雨が降り、淀川の水を堰き止める
- 淀川の堤防を切り、洪水を起こす
- 大坂城の周りを水で満たす
この戦略により大坂城は海の中に浮かぶ城のようになり、さらに難攻不落の城となりました。豊臣秀頼の戦略である徳川軍が攻めあぐねるという部分が成功する状態になったのです。
大坂城の北東にある枚方。その距離20km。大坂城と枚方の近くには淀川が流れており、この淀川を堰き止めます。これにより水を溜め、堰を切ることで溜まった水を大坂城周辺に流し、大坂城へ進軍できないようにするというのが豊臣秀頼の籠城作戦です。
標高20〜30mほどの上町台地という盛り上がった台地の北の端に大坂城あります。
ここに枚方から淀川からの水を決壊させることで、大坂城北・東北・東側を湖のようにし、徳川の新軍ができないようにしたのです。
また、船で物資補給が可能になるというメリットも同時に実現するという作戦でした。まとめると次のようなメリットがあります。
- 囲まれる心配がなくなり、弱点が減り、補給も可能になった
- 徳川軍は20万の軍勢なので長引くほど維持費がかかる
- なので和睦条件で足元を見られる可能性が低下する
- 徳川軍の攻撃を南と西に絞ることができる
以上が豊臣秀頼側の大坂冬の陣への流れです。
次は真田幸村側の視点で大坂冬の陣をわかりやすく解説していきます。
真田幸村側の大坂冬の陣への流れ
真田幸村側の大坂冬の陣への流れ
関ヶ原の戦いで西軍が負けたため、西軍に所属していた真田幸村は牢人となっていました。父・昌幸は亡くなり、幸村は真田家の再興を目指し豊臣家からきた協力要請を受け大坂城へと旅立ちます。
真田幸村側の大坂冬の陣への流れ1
大坂城に着いた真田幸村は豊臣秀頼と作戦面で意見が食い違い、自身の戦略で戦うことはできませんでした。豊臣秀頼の洪水により大坂城の周りを水による防壁を作り大坂城に籠城する戦略の中で、真田幸村は「真田丸」という独自の出城を築く作戦を展開させるように切り替え大活躍していきます。
真田幸村(真田信繁)独自の砦である真田丸の範囲は250m四方。真田丸は即席で作られた大坂城手前の出城です。
豊臣秀頼による大坂城の洪水策により、次のようなメリットが豊臣側に発生しました。
- 北・東が湖となり囲まれる心配がなくなり、補給も可能になった
- 徳川軍は20万の軍勢なので長引くほど維持費がかかる
- なので和睦条件で足元を見られる可能性が低下する
- 徳川軍の攻撃を南と西に絞ることができる
真田幸村は真田丸を作りますが、豊臣秀頼の洪水をうまく利用していると考えられており、徳川軍が攻めいる激戦区の南側に陣取ったのが真田丸なのです。
真田幸村側の大坂冬の陣への流れ2
徳川家康は豊臣秀頼の洪水策に足止めされていました。足止めされると多くの大名たちの士気は落ち、大軍を養うだけの資金も減っていき、家康への信用も落ちていきます。
そのようなリスクの中、片桐且元の提案でこの淀川の水を堰き止める工事を行い、水を干上がらせる戦略に切り替えます。
その甲斐あって、大坂城を取り囲む水は日に日に減っていきました。
真田丸の背後もこの水の防壁がなくなれば攻め込まれる弱点になっているため、水が減っていることを感じた真田幸村は、徳川軍を挑発し、真田丸での攻防戦を早めます。
3. 真田丸攻防戦の結果
真田丸での攻防の結果は、真田幸村軍の大勝利に終わり、真田幸村は豊臣秀頼の洪水策が破られた後でも、大坂冬の陣で大坂城を守り切ったのでした。
しかし、真田丸での勝利は部分的な勝利に過ぎず、水が引いた事実は大局的に見ると戦況を変える大きな原因となり、徳川家康がトドメの一手を打ちに進軍してくることになるのでした。
真田幸村側の大坂冬の陣への流れ3
徳川家康は真田丸により大損害を受け攻め込むこともできませんでしたが、大坂城近くまで進軍することができました。
ここから外国から購入したカルバリン砲を使い大坂城本丸を攻撃します。その際、片桐且元に淀殿の御殿の場所を教わりそこを目がけて砲撃。その結果、淀殿御殿を破壊し、侍女8名を死亡させるなどの威力を見せつけます。
間近で複数の侍女が死に御殿が破壊された淀殿は恐怖し、家康の和議を受け入れ大坂冬の陣は終結しました。
なぜ家康は和議を申し出たのか?これは難攻不落の大坂城を攻め落とすには堀を埋めることが重要だったためと考えられています。
豊臣秀吉が生きていた頃、秀吉は各大名に「どうやったら大坂城を攻め落とせるか?」という問いを出したことがあります。誰も答えられなかったため、秀吉自らが堀を埋めれば良いと答えたという造作とも考えられるエピソードがあります。
このようにして、家康が淀殿に提案した和議は、堀を埋めて大坂城を攻め落とすという「大坂夏の陣」への布石だったともいえるのでした。
真田幸村側の大坂冬の陣への流れ4
大坂冬の陣の後、家康は和議を武器に大坂城に手を加えていきます。
- 大坂城の外堀を埋めた
- 大坂城の内堀を埋めた
- 二の丸・三の丸・真田丸を破壊
これにより難攻不落の防壁の大部分が取り払われ、丸裸となった大坂城は、攻略可能な城となったのでした。
また、家康は大坂城に集まっている牢人を追い出すよう伝えています。そうしなければ再び戦になることを懸念したのです。
家康は特に真田幸村を警戒しており、当時のオランダ商館員の資料にも真田左衛門と名前が残っています。
- 牢人側は無職なので食べることにも困る
- 大坂城では寝床も食事も支給される
- 牢人は大坂城を追い出されると、食べるに困る失業者となる状況
そのため牢人たちも外堀を埋められ、徳川のカルバリン砲などを見ても帰らずに大坂城に留まっていたわけです。
特に真田幸村などは約束されている恩賞は破格。こうして大坂冬の陣は豊臣VS徳川以上に、牢人VS徳川の戦いにも変わっていったのです。
以上が真田幸村側の大坂冬の陣への流れです。
以上が大坂冬の陣です。徳川・豊臣・真田の視点から大坂冬の陣を解説しました。この3人の視点で大坂冬の陣を理解すると、大坂夏の陣もわかりやすくなります。
大坂夏の陣
豊臣軍は出世目当ての牢人の集まりです。牢人とは主家・主君を失った失業状態の武士のことです。
各大名たちは関ヶ原の戦いで家康の臣下となったため豊臣方には大名は味方せず、牢人しか集まらなかったためです。その豊臣軍の主力は下記の通りです。
- 後藤又兵衛
- 真田幸村
- 毛利勝永
- 明石全登
- 薄田兼相
- 渡辺糺
大坂冬の陣では真田幸村の活躍もあり、大坂城は守られました。しかしその後の講和により堀は埋められ、二の丸・三の丸・真田丸を破壊された状態となり、難攻不落だった大坂城は丸裸になった状況となっていました。
そのため大坂夏の陣では、豊臣側の主力は大坂城にとどまらず、大坂城から離れた場所で徳川軍と戦っていきます。
道明寺・誉田合戦
道明寺・誉田合戦 5月6日 後藤又兵衛 VS 徳川秀忠
豊臣軍の主力のうち、後藤又兵衛、毛利勝永、真田幸村は、道明寺で徳川軍と主力戦を行う予定でした。
徳川家康は二条城から河内かわちの星田に布陣。
徳川秀忠は伏見城から河内の砂に布陣。定刻通り、道明寺に着いたのは後藤又兵衛軍2800のみ。真田幸村や毛利勝永は霧のためたどり着けずにいました。
小松山に陣取り、後藤又兵衛軍のみで大軍である徳川軍を相手に奮戦。幾度も徳川軍を撃退するも、最終的には伊達政宗軍の攻撃で討死します。
後藤又兵衛の死後、正午に橙武者・薄田兼相1700、明石全登2000の兵が到着するも徳川の大軍に敗北。
道明寺の西にある藤井寺には毛利勝永が布陣。伊達政宗が行った道明寺の南に迂回し襲撃する作戦を、真田幸村が阻止。
八尾・若江の戦い
八尾(長宗我部盛親 VS 藤堂高虎)
道明寺から近い約8Km先の八尾と若江では、長宗我部盛親が、徳川軍・藤堂高虎の先方隊を倒します。
また若江の豊臣軍・木村重成は、徳川軍・藤堂高虎の右翼隊を倒します。しかし、その後伊井直孝の軍勢と戦い討死。
道明寺付近で行われていた以上の戦いは、午後4時頃に豊臣軍が撤退をはじめます。
天王寺・岡山の戦い
天王寺・岡山の戦い
天王寺・岡山の戦いは、規模としては徳川 約15万 VS 豊臣 約5万の戦いで、天王寺口には徳川家康が陣取り、岡山口には徳川秀忠が陣取り、大坂城へ進軍を開始した大坂夏の陣最後の戦いです。
- 茶臼山には、大和路ら35000と浅野長晟ら5000、松平忠直ら15000が布陣
- 天王寺口には、本多忠朝ら5500、榊原康勝ら5400、酒井家次ら5300、その後方に徳川家康の本陣15000、徳川義直15000、徳川頼宣らが本陣後備として布陣
- 岡山口には、前田利常、片桐且元ら20000、井伊直孝、藤堂高虎勢計7500、細川忠興、その後方に徳川秀忠の本陣23000が布陣。黒田長政らも布陣
- 茶臼山には真田幸村ら8000以上の兵が布陣
- 天王寺口には毛利勝永、木村重成勢ら約6500が布陣
- 岡山口は大野治房ら4600が布陣
- その他、茶臼山方面に明石全登ら300、全軍の後詰として大野治長、七手組の部隊15000前後が布陣
徳川軍の本多忠智が豊臣軍・毛利勝永と戦います。岡山口では前田利常軍を大野治房軍が撃退。
しかし大野治房とは別に豊臣軍の毛利勝永が大活躍し、本多忠朝・小笠原秀政・忠脩父子など徳川軍の武将を次々に撃破していきます。
天王寺口では真田幸村が松平忠直に奮戦。さらに幸村は間者(潜入していたスパイ)を使い、越前勢を大混乱させ、徳川家康に自害を考えさせるほど近距離へと迫ります。
しかし真田3500に対し、家康の十男・徳川頼宣軍が15000の兵で駆けつけます。
徳川家康は60年の人生で48回戦を経験していますが、馬印が倒されたのは武田信玄と真田幸村の2回だけであり、武田信玄との三方ヶ原の戦いでは恐怖のあまり脱糞するというほどでした。
恐怖や自害を考えた状態から徳川頼宣の援軍も到着し、越前松平家が体勢を立て直し、真田幸村は茶臼山にある安居天神で討死します。
越前松平家の鉄砲頭・西尾仁左衛門が真田幸村を討ち取ったと言われています。
その後、真田幸村は日本一の兵と謳われ歴史に名を刻ざみました。
大坂夏の陣の終焉(豊臣秀頼・淀殿の最後)
大坂夏の陣の終焉(豊臣秀頼・淀殿の最後)
真田幸村の討死もあり、劣勢の豊臣軍。その主力である毛利勝永・大野治房・明石全登などは大坂城内へ撤退します。
しかし大坂城内では徳川の内通者が放火。そして徳川軍も大坂城に攻め込みます。
牢人ばかりの大坂城内は指揮系統が弱く、恐怖で混乱し、逃亡や自害などコントロールを失い収拾がつかない状況となりました。
徳川家康が豊臣秀頼と結婚させていた千姫は徳川軍により救出され、豊臣秀頼と淀殿は大野治長ら30名と大坂城から避難し一夜を明かします。
そして1615年(慶長20年)5月8日正午頃。伊井直孝の鉄砲隊が発砲し、糒倉で豊臣秀頼、淀殿、大野治長や従者が自害。
これにより大坂夏の陣は決着しました。
大坂夏の陣の後
大坂夏の陣の後、秀頼と側室の間に生まれていた男女のうち、国松8歳は、六条河原で斬首。
もう一人の女子は千姫の養女として助命され仏門に入ります。そして鎌倉の東慶寺で天秀尼という住持となり37歳まで生きました。
この天秀尼の死により豊臣家は完全に滅亡したことになります。
その他、大坂城5人衆と呼ばれた豊臣家側として戦った武将たちがいました。
- 後藤又兵衛
- 真田幸村
- 毛利勝永
- 長宗我部盛親
- 明石全登
このうち生き残った長宗我部盛親は大坂夏の陣後に捕まり、引き回しの上六条河原で斬首となりました。
大坂城5人衆で唯一生き延びたとされるのは明石全登ですが、明石全登は討ち取られたとされる資料も多くあり、本当のところはわかっていません。
こうして決着がついた後、大坂夏の陣は人々の記憶から薄れていきます。
大坂冬の陣、夏の陣に勝利した徳川家康は、最大の懸念材料であった豊臣家を滅ぼし、名実ともに天下統一を果たしました。この大坂の陣で戦国時代は終わり、約260年間続く江戸時代が始まるのでした。
大坂の陣 人物事典
豊臣秀頼
- 秀吉の側室・淀殿は鶴松を生むが、鶴松はすぐに他界(この頃、朝鮮出兵を決める)。
- 秀吉は秀次を養子に迎え関白職も秀次に譲る
- 淀殿が秀頼を生む
- これにより秀次は自刃に追い込まれ、後継を秀頼とした
- そして秀吉は病死
淀殿の言いなりになる頼りないイメージがありますが、最近では徳川史観という偏った見方をされているとも言われています。
頼りない人物に天下を任せると万民が苦しむ、なので徳川が天下を治めるという正当化した見方をされているとも言われています。
身長は190センチを超えと言われるほど大きく、小柄だった豊臣秀吉の子とは思えないとも言われています。淀殿と誰かの別の人物の子ではないかとも考えられていますが、豊臣秀吉が亡くなったのは豊臣秀頼が6歳の頃であり、秀吉は自分の子だと信じて徳川家康や前田利家ら五大老・石田三成ら五奉行に秀頼の未来を任せるのでした。
- 秀吉の死をきっかけに朝鮮から各大名が帰還
- その後、各大名と石田三成が対立
- その関連で徳川家康と石田三成が対立
- 石田三成は隠居させられるが、挙兵する
- そして関ヶ原の戦いで東軍・家康側が勝利
- 関ヶ原の戦いの結果、徳川家康により豊臣秀頼は大坂城の一大名として65万石に転落
その後、加藤清正や福島正則らの貢献により豊臣秀頼は右大臣などの官位を得て面目を保ちます。
時が過ぎ家康と久々に会う秀頼は立派に成長しており、老いて当時の平均寿命を超える家康には脅威と感じられた。
また、世間の噂の中にも徳川家康や秀忠が将軍色を豊臣秀頼に譲るのではないかという噂も出るよになります。これらから脅威を感じた家康は方広寺鐘銘事件で豊臣秀頼に圧力をかけると、豊臣方は家康と交渉しますが交渉は決裂。豊臣方と徳川方が対立し、大坂冬の陣が勃発するのでした。
大坂冬の陣は引き分けに終わり和睦交渉となりますが、徳川方が大坂城の堀を埋め、攻め落とされる準備が整ってしまいます。
大坂夏の陣が勃発し、頼りの綱の真田幸村や後藤又兵衛、木村重成らが討死。
豊臣秀頼は淀殿や毛利勝永、真田大助(真田幸村の子)や侍女など二十数名の家臣とともに櫓に火をかけ自刃し人生に幕を閉じました。
片桐且元
片桐且元
- 出身:近江(滋賀県)
- 生没:1556-1615年6月24日
- 地位:大和龍田藩主(奈良県斑鳩町)
片桐且元は、近江長浜城の羽柴秀吉に仕えた賤ケ嶽七本槍の一人。賤ケ嶽七本槍は加藤清正や福島正則らがいます。
九州征伐や小田原征伐にも出陣しており、秀吉を支えた功労者の一人とも言える人物です。
他にも太閤検地の検地奉行や、方広寺の作事奉行などもこなしています。
また、1593年(文禄2年)には、豊臣秀頼の養育係に任命され、その後大名に出世します。
そして病気で亡くなる頃の秀吉に秀頼のことを託されます。
関ケ原の戦い後は、家康により茨木藩主となり、その後は摂津大坂城で、秀頼の側近を務めます。
このように秀頼と関係の深い人物が片桐且元です。
しかし、方広寺の鐘を鋳造を命じていた片桐且元は、家康の側近である以心崇伝いしんすうでんから疑惑を掛けられました。
それは、「国家安康」「君臣豊楽」の文字という文字で、「国家安康」は家康の文字を故意に切り離し呪っていること、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祝う内容となっていると言うものです。
この件を豊臣側に持ち帰り報告した片桐且元は、味方である淀殿からも家康と内通しているのではないかと疑われるという酷い対応をされるのです。
片桐且元は、秀頼と家康の間に入り名代や使者として活躍していた人物でもあるため、どちらに味方すべきかの判断ができ、幼少から関わっていた豊臣秀頼側を見限り、家康側に寝返るのでした。
その後、大坂冬の陣が起こります。そこで片桐且元は大活躍します。豊臣秀頼が大坂城に水の防壁を造った際に、水を堰き止め干上がらせる策を家康に授けているのです。
また和泉堺を守り活躍したため、大坂冬の陣後は龍田藩主に出世。
さらに片桐且元は大坂夏の陣にも参加しています。
しかし、大坂城落城から20日後に病没し人生の幕を閉じるのでした。このように豊臣と共に生き、豊臣を滅ぼした直後に死亡するという大名が片桐且元と言えます。
木村重成
木村重成
木村重成は摂津大坂藩主で、豊臣秀頼の重臣の1人。
大坂冬の陣では今福・鴫野で徳川方と交戦。
佐竹義宣、上杉景勝、直江兼続らを相手に奮戦し評判を得た人物です。
また、木村重成の正室は賢夫人として評判も高い人物でしたが、次のような自己犠牲で夫を励ますという行動に出ています。
大坂夏の陣が始めると木村重成は絶食を始める
正室が心配しその理由を尋ねると、討死時に腹の中に食べ物が残っていると見苦しいという
正室は夫・木村重成を励ます遺書を書き自害する
見苦しさから潔く自害したのかは不明ですが、この行動は戦国時代の武将から、妻としての評判が立ったようです。
大坂夏の陣では若江(大阪府東大阪市)で徳川方の井伊直孝と戦い討死しました。ちなみに井伊直孝は井伊直政の息子です。
後藤又兵衛(後藤基次)
後藤又兵衛(後藤基次)
生没:1560年-1615年
出身:播磨
後藤又兵衛は元は黒田長政の重臣で、関ヶ原の戦いでは徳川方に味方した人物です。当然、豊臣秀頼擁護する石田三成らと戦っていましたが、大坂の陣では豊臣秀頼に招かれ豊臣方に味方し徳川方と戦うという変わった経歴の人物。
後藤又兵衛は元は黒田官兵衛の家臣です。黒田官兵衛が織田政権の豊臣秀吉の部下であった際に摂津有岡城(兵庫県伊丹市)に幽閉された事件がありました。その際に商人に変装して官兵衛救出に向かうなどしたのが後藤又兵衛です。
時が過ぎ、黒田官兵衛の息子・黒田長政が黒田家の家督を継ぎます。黒田長政の元で後藤又兵衛は九州征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに従軍します。
後藤又兵衛は関ヶ原の戦いでは、豊臣方の石田三成、島左近、蒲生郷舎らの軍と交戦。
この功績により、黒田長政が福岡藩主に出世。後藤又兵衛も16000石で大隈おおぐま城主となります。
しかし後藤又兵衛は黒田長政と対立し、城を捨て脱藩。牢人となった後藤又兵衛に豊臣秀頼から申し出があり、大坂冬の陣・大坂夏の陣に豊臣方として参戦したのです。
大坂冬の陣では佐竹義宣、上杉景勝、直江兼続と戦い、大坂夏の陣では伊達政宗、片倉重長と激戦を繰り広げます。
大坂夏の陣の総力戦とも言うべき戦では霧が濃かったため、真田幸村や毛利勝永らと合流できず、後藤又兵衛の軍のみで徳川軍に応戦することになります。
結果としては片倉重長の鉄砲隊により後藤又兵衛は討死。
しかしこの戦いが源平以来と称えられるほどの奮戦であり、多くの武将に賞賛され、後藤又兵衛は歴史に名を刻むことになりました。
真田信繁(幸村)
真田信繁(幸村)
生没:1567年- 1615年
出身:信濃(長野県)
真田信繁は真田幸村と言われる人物で、徳川家康の天敵とされる人物です。
少年時代は上杉景勝のもとで人質として生活していました。
真田幸村は、父真田昌幸と共に、関ヶ原の戦い本戦である関ヶ原の地に向かう途中の徳川秀忠を翻弄します。
その結果、徳川秀忠軍38000を遅刻させ、関ヶ原の戦いへ参戦できなくするという戦略を成功させます。
しかし、西軍が負けたため、真田昌幸と信繁親子は紀伊九度山きいくどやま(和歌山県九度山町)へ配流となりました。
この紀伊九度山で父・昌幸が病死。
その後、豊臣秀頼から大阪城へ招かれ、大坂冬の陣と大坂夏の陣に参戦する道を選びます。
大坂冬の陣では信繁は豊臣秀頼に出陣要請をしましたが、秀頼は拒否。
さらに豊臣秀頼は真田信繁の夜襲作戦や山岳作戦も却下。
そのため仕方なく真田信繁が真田丸という出城を造り奮戦。
その結果徳川軍に大損害を出させます。
大坂夏の陣では、後藤又兵衛との約束に間に合わず、後藤又兵衛を討死させてしまいます。
真田信繁が徳川家康本陣に突撃し、徳川家康が自刃しようとするなど、家康の肝を冷やすところまで追い詰めました。
しかしまた盛り返した徳川軍の藤堂高虎や松平忠直と戦い疲弊。
真田幸村が休んでいるところを松平忠直の鉄砲頭・西尾宗次に撃たれ、人生に幕を閉じました。
徳川秀忠
徳川秀忠
- 徳川秀忠とくがわひでただ
- 出身:遠江とおとうみ(静岡県)
- 生存:1579-1632年(享年54歳)
- 徳川家康の三男
- 江戸幕府の第二代将軍
- 兄は松平信康、結城秀康
まじめで謙虚、人格者との呼び声も高い徳川秀忠。しかし関ケ原の戦いの前哨戦となる上田城の戦いでは真田昌行や真田幸村に翻弄され、関ケ原の戦い本戦へ遅刻。大坂の陣では逆に急ぎすぎ隊列を見出したことを家康に叱られるなど、戦下手な面も目立つ人物。
しかし、家康の死後は徳川政権を安定させる政治を行いました。
- 妻は江
- 江は浅井長政とお市の娘で淀殿の妹
- 秀吉が取り持ち江と結婚している
秀忠と江は夫婦仲は良く、子宝に恵まれました。そのためか将軍なのに側室がいないという目ずらしい夫婦でした。
藤堂高虎
藤堂高虎
藤堂高虎は、主君を変えながら出世を続け、関ケ原の戦いでも活躍した人物です。
- 出身:近江(滋賀県)
- 生没:1556-1630年
- 石高:阿濃津藩主32万石
藤堂高虎が仕えた主君は下記の通り。
- 浅井長政
- 阿閉正家
- 磯野員昌
- 津田信澄
- 豊臣秀長
- 豊臣秀保
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 徳川秀忠
藤堂高虎は次のような各合戦で活躍します。
- 姉川の戦い
- 賤ケ岳の戦い
- 九州征伐
- 朝鮮出兵
- 関ケ原の戦い
- 大坂の陣
中でも大坂夏の陣では長宗我部盛親を破ります。
さらに徳川家康が死を覚悟したと言われる真田幸村(真田信繁)の攻撃を防ぎ、家康を守り抜いた中に藤堂高虎も含まれ活躍しています。
さらに家康が亡くなると日光東照宮の造営にも関わります。
そして徳川秀忠の末娘・和子まさこが後水尾天皇ごみずのおてんのうに入内する際にも活躍します。
このように何度も主君を変えたうえで活躍し、さらには最後の主君である徳川家には戦以外でも関りを続けて活躍したのが藤堂高虎です。
福島正則
福島正則
福島正則は、幼少期から豊臣秀吉に仕えた人物で、母が豊臣秀吉のおばという関係。
そのことからも豊臣家への情が深く、関ケ原の戦いでも東軍に参加するとは思われなかった人物です。
- 出身:尾張(愛知県)
- 生没:1561年-1624年7月13日
- 享年:64歳(病死)
同じように豊臣秀吉に幼い頃から仕えていた石田三成とは犬猿の仲で、文禄慶長の役で決定的に関係が悪くなり、関ケ原の戦いでは徳川家康側の東軍に参加します。
関ケ原の戦いでも活躍し、東軍の勝利に貢献します。その結果、広島藩50万石を与えられます。
しかし、大坂の陣ではどっちつかずの立場となり、領地の広島藩を取り上げられるという結果になりました。