関ヶ原の戦いの「原因・流れ・人物」をわかりやすくまとめた解説
このページでは関ヶ原の戦いについて、どちらが勝った以外に、「原因・前哨戦・関ヶ原の戦い本戦・その後」の4つの段階でわかりやすく解説していきます。さらに関ヶ原の戦いの人物事典も後半にまとめています。各人物がわかると関ヶ原の戦いが驚くほど分かりやすくなるため、関ヶ原の戦い人物事典もご活用ください。
関ヶ原の戦いがわかりやすくなる予備知識
関ヶ原の戦いがわかりやすくなる予備知識
関ヶ原の戦いは規模感を知るために次の数値を知っておくと、イメージしやすくなります。
関ヶ原の戦い本戦の兵力
- 東軍 74000
- 西軍 82000
小早川秀秋が裏切るまでは石田三成がやや有利だった。
徳川秀忠38000が間に合わなかったためなど。
東軍の戦力
- 徳川家康 240万石
- 伊達政宗 58万5000石
- 最上義光 24万石
- 前田利長(前田利家の子) 83万5000石
- 福島正則 20万石
- 細川忠興 18万石
- 黒田長政 18万石
西軍の戦力
- 石田三成 19万4000石
- 毛利輝元 120万5000石(出陣せず)
- 上杉景勝 120万石
- 佐竹義宣 54万6000石
- 宇喜多秀家 57万4000石
- 小早川秀明 35万7000石(裏切る)
- 島津義弘 56万石(内紛で1500の軍勢で参加)
1. 関ヶ原の戦いの原因ときっかけ
簡単なまとめ
関ヶ原の戦いの原因は、豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)。この戦いで、戦国大名と石田三成らの関係は悪化。
そして秀吉が死に、石田三成が襲われたこと。ここに徳川家康や毛利輝元が加わり、各大名を巻き込んで豊臣秀吉亡き今の「権力争い」と「豊臣政権を守ろうとする戦い」である関ヶ原の戦いへと発展していきます。
1.豊臣秀吉の死
1. 文禄・慶長の役で深まる戦国大名と石田三成の溝
関ヶ原の戦いのきっかけとなったのが、豊臣秀吉の打ち出した「文禄・慶長の役」と言われる朝鮮出兵です。
日本で天下統一を果たした豊臣秀吉は、その後、朝鮮出兵の命令を出し各戦国大名を朝鮮に派遣しました。これが「文禄・慶長の役」です。
文禄・慶長の役は、朝鮮現地で戦う大名・兵たちと、日本でその連絡役や内政業務を行う役人とに分かれます。
そして秀吉は朝鮮出兵関わる仕事を石田三成に任せました。
しかし、頭で出世した本部側の石田三成と、体(武力)で出世した現場側の福島正則や加藤清正、黒田長政らとの感覚の違いに亀裂が入ります。
特に福島正則や加藤清正、石田三成は幼少期から秀吉に面倒を見てもらい育てられた秀吉チルドレンのため、秀吉という親分がいてこそ成り立っていた関係だったのです。
加藤清正ら大名たちが積極的に戦っていない、総大将の戦い方に難ありなどと、戦場にいない石田三成側が豊臣秀吉に報告していたのです。
報告することは石田三成の仕事でしたが、現場の大名たちとの主張の食い違いは大きく亀裂が入ります。
秀吉は激怒し、各大名は領地の一部を没収されるなどの処罰を受け、さらに石田三成やその親戚に領地が与えられる話もあり、各大名は石田三成への恨みが蓄積されていくのでした(ちなみに石田三成は領地受領を断っています)
これが関ケ原の戦いへつながる原因の一つであり、爆弾とも言える出来事です。
2. 豊臣秀吉の死
文禄・慶長の役での大名 VS 石田三成という緊張状態の中、1598年(慶長3年)、つまり関ケ原の戦いの2年前に絶対的な権力や人心掌握術を持つ天下人・豊臣秀吉が伏見城で死去するのです。
これにより朝鮮半島から引き上げることにした日本軍。こうして石田三成への恨みつらみという争いの火種を持つ大名たちが朝鮮半島から日本へ戻り、本格的に石田三成らと対立を深めることになるのです。
この文禄・慶長の役の参戦者と国内での不満が、関ケ原の戦いへの導火線に火が付いた原因となっているのです。
- 爆弾:日本本部(石田三成たち)と朝鮮出兵現場(各大名)の対立
- 着火:豊臣秀吉の死、文禄・慶長の役からの帰国
3. 秀吉の死後
豊臣秀吉が亡くなった翌年の1599年(慶長4年)正月。秀吉の息子・豊臣秀頼は伏見城から大坂城へ入り、徳川家康が政治面を、前田利家が教育面の後見人となります。
豊臣秀頼はこの時6歳だったためまともに政治が行えるわけもなく、心配した秀吉の遺言で政治を行う5人の大名がおり、五大老と呼ばれていました。
そしてこの五大老を補佐する五奉行もおり、秀吉亡き後、五大老と五奉行で政治を進めていく豊臣政権の新体制となっていました。
五大老
- 徳川家康
- 前田利家
- 宇喜多秀家
- 毛利輝元
- 上杉景勝
五奉行
- 石田三成
- 浅野長政
- 増田長盛
- 長束正家
- 前田玄以
このような形で豊臣秀吉の死後、政治が行われていきますが、秀吉が死んだことにより文禄・慶長の役で不満を溜めた各大名たちがついに行動を起こすことになるのです。
2.武断派大名が石田三成を襲撃
2.武断派大名が石田三成を襲撃
豊臣秀吉が死に、息子・秀頼と母・淀殿による新豊臣政権が始まります。新たな豊臣政権を支える五大老の中で大きな影響力を持っていたのが前田利家でした。
- 徳川家康
- 前田利家
- 宇喜多秀家
- 毛利輝元
- 上杉景勝
前田利家は幼少期から織田信長の部下だった人物で、信長に召し抱えられた豊臣秀吉とは当初から気が合い、ともに死線をくぐり抜けた親友です。
秀吉と共に出世していき、武功も立て、豊臣政権では大きな影響力を持っていたのです。
そのため、この前田利家がいることで、文治派と武断派の仲の悪さを緩和し、バランスが保たれていたのです。
文治派とは武力ではなく法令・教化などで政治を行なおうとするする大名を言い、下記のような人物が文治派の代表です。
- 石田三成
- 大谷吉継
- 小西行長
武断派は豊臣政権で武力で成り上がり、武力重視の政治を行おうという武将のことで、文治派を嫌うものが多く、次のような武将が代表的な武断派です。
- 福島正則
- 加藤清正
- 池田輝政
- 黒田長政
- 浅野幸長
- 加藤嘉明
- 細川忠興
この文治派という事務方のような大名と、武断派という営業職のような大名の仲の悪さを緩和していた前田利家でしたが、豊臣秀吉に続き病死してしまうのです。
- 豊臣秀吉の没日:1598年9月18日(享年62歳)
- 前田利家の没日:1599年4月27日(享年62歳)
豊臣秀吉の死に続く前田利家の死により、次のようなことが起きました。
- 利家の死により三成と武断派大名らの均衡は崩壊
- ついに不満を爆発させた大名たちが石田三成を襲撃
- しかし三成は事前に察知し伏見城内の自邸へ逃避
文禄・慶長の役で不満を持った大名たちが、秀吉の死・利家の死により、抑制が効かなくなり、石田三成を襲撃したこの事件は、襲撃した大名側 VS 石田三成側という形で互いに他者への助力を求めることにより関ヶ原の戦いへと発展していきます。
窮地の三成は五大老の一人である毛利輝元へ助力を願い、輝元が家康と交渉します。ちなみにこの延長上にある関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将となり、徳川家康が東軍の総大将となります。
- 毛利輝元は安芸(広島県)の戦国大名
- 毛利元就の孫
- 秀吉から120万石を与えられた人物
- 豊臣政権では五大老の一人
- 西軍の総大将
石田三成が襲撃された件を毛利輝元へ相談すると、石田三成を襲撃した加藤清正や福島正則らは、徳川家康へ相談します。
徳川家康は当時、最大の兵力と資金を持っており、戦国大名中No.1の実力者。地位的にも高い内府と呼ばれる内大臣という官職についており、実力的には最も天下人に近い位置付けでした。
その家康に加藤清正らが相談し、その望みは石田三成の切腹。しかし家康の提案により、次の要求で収まりました。
- 石田光成を隠居させること
- 朝鮮出兵の罰で奪われた各大名の土地が返還されること
この要求は実現され、石田三成が隠居させられる事になりました。
そして徳川家康が伏見城に入ります。すると「家康が天下人になった」と噂されるようになっていくのでした。
これに対し、豊臣家への忠誠心が高い石田三成は家康に豊臣家の天下を奪われることを懸念し、この噂や自分の処分に対する家康への敵意が高まります。
三成は安国寺恵瓊らと画策し、起死回生の時を待つのでした。
安国寺恵瓊とは毛利家の使者として信長政権の秀吉と対面した際に、信長の破滅と秀吉の天下を予見する書状を毛利家に送るという先見の明がある人物です。
- 安芸にある安国寺の住職
- 毛利家の外交役を務めた人物
- 備中高松城攻略の秀吉と毛利氏の間で和解を成立させた功績がある
- 秀吉の側近としても活躍
- 関ヶ原の戦いでは石田三成の元で活躍
関ヶ原の戦いの原因となる、石田三成が襲撃される事件をまとめると次のようになります。
- 加藤清正や福島正則らが石田三成を襲撃
- 石田三成が毛利輝元に相談
- 加藤清正らが徳川家康に相談
- その結果石田三成は隠居・徳川家康が伏見城入り(天下人の噂)
- 石田三成が家康や襲撃した大名に恨みを持つと同時に、豊臣政権が乗っ取られる危機感を持つ
- 石田三成は安国寺恵瓊らと打倒・徳川家康の挙兵準備を進める
次は、ついに徳川家康が動き出し、石田三成の逆襲も始まります。
3.石田三成の挙兵
3.石田三成の挙兵
1599年(慶長4年)関ケ原の戦いの一年ほど前、徳川家康は前田利家の息子である前田利長や浅野長政に圧力を掛けます。暗殺を計画しているのではという疑いをかけ、勢力を削っていきます。
家康の会津征伐
また、1600年6月には、上洛要請拒否や兵力強化を行う上杉景勝に対し、豊臣秀頼への反逆として会津征伐を決行。
豊臣政権に敵対する上杉景勝を討つという名目で各地の大名を動員し、自らも豊臣秀頼に挨拶したうえで大坂城から会津へ上杉討伐に出発します。
上杉景勝とは
上杉景勝とは上杉謙信の養子の一人で、謙信の姉の息子です。上杉謙信の養子は景勝と景虎という二人の養子がおり、後継者争いをすることになります。直江兼続らが味方になり、景勝が勝利し、上杉家の当主となりました。
豊臣秀吉が天下を取ると、豊臣配下の大名となります。その後、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で活躍し、五大老の一人になります。
秀吉の死後は、石田三成ら西軍に加わり、関ヶ原に行かずに米沢(山形県)などで東軍の伊達政宗や最上義光らと戦うことになります。
- 越後(新潟県)出身
- 1555-1632(享年69歳)まで生存
- 会津120万石、会津若松城(福島県)に異動
- 五大老の一人
- 関ヶ原の戦いでは西軍
徳川家康が上杉征伐に向かう途中、伏見城に立ち寄ります。伏見城には50年来の家臣である鳥居元忠を置き、伏見城の守りを頼むのでした。後にこの伏見城が西軍から攻められる伏見城の戦いが起きることになります。
西軍を作る石田三成の動き
徳川家康は、前田利長や浅野長政に圧力をかけ、上杉景勝討伐を実行するなど、敵対する大名をつぶしにかかる動きを見せる中、その状況を知った石田三成は、徳川家康が会津征伐(上杉征伐)に向かい、大坂を離れた際に挙兵の準備を進めます。
石田三成はまず近江・佐和山城から、美濃(岐阜県)垂井にいる親友の大谷吉継へ協力を求めます。
- 大谷吉継は百万の大軍を預けて軍配させてみたいと豊臣秀吉に言わしめた武将
- 石田三成や加藤清正、福島正則などと同様に、幼少期に豊臣秀吉に育てられた秀吉チルドレンの一人
- 戦国時代の二大天才軍師である竹中半兵衛と黒田官兵衛の弟子
また、毛利輝元や宇喜多秀家らを味方につけ、豊臣政権を守る「西軍」戦力を整えていきます。
これにより畿内は西軍に賛同するものが多く、西軍勢力増大し、畿内各地の東軍の居城を攻め落としにかかります。
畿内とは京に近い五か国のことで次の地域になります。
- 山城(やましろ)・・京都南部辺り
- 大和(やまと)・・・奈良県辺り
- 河内(かわち)・・・大阪府辺り
- 和泉(いずみ)・・・大阪府南西部辺り
- 摂津(せっつ)・・・大阪府北中部の大半と兵庫県南東部辺り
こうして石田三成の挙兵が始まりました。まとめると次のようになります。
- 徳川家康が前田利長や浅野長政に圧力をかける
- 徳川家康が会津の上杉景勝征伐に出陣する
- 石田三成が大谷吉継や毛利輝元、宇喜多秀家らを味方につけ西軍が作られる
- 畿内で西軍が挙兵し、関ヶ原の前哨戦となる各地の戦いが開始された
2. 関ヶ原の戦い前哨戦
関ヶ原の戦いは関ヶ原で行われた他、その前後に日本各地で東軍・西軍に分かれた各武将たちの戦いがあり、関ヶ原の戦い本戦に影響を与えています。
この日本各地で行われた各戦国大名たちの戦いを「関ヶ原の戦いの前哨戦」としてまとめ、どのように関ヶ原の戦い本戦につながっているのかをわかりやすく解説していきます。
前哨戦1. 伏見城の戦い
前哨戦1. 伏見城の戦い
石田三成ら西軍が挙兵し、始めに進軍したのが京にある伏見城でした。西軍色に染まる畿内に伏見城があります。この伏見城は徳川家康と子供の頃から過ごしてきた鳥居元忠が守っていました。
鳥居元忠は家康への忠義から4万もの西軍に囲まれ、開城要求をされますがこれに応じず抵抗します。
- 日付:1600年(慶長5年)7月18日-8月1日
- 場所:山城国伏見城
- 兵力:東軍・鳥居元忠1800 VS 西軍・宇喜多秀家4万
1600年7月18日に西軍・宇喜多秀家を総大将とし、小早川秀秋や大谷吉継、毛利秀元、長宗我部元親などなど、4万の軍勢で伏見城に攻撃を開始。
伏見城の戦力は1800人であり、西軍4万 VS 東軍の伏見城1800という兵力差。
しかし、鳥居元忠ら家康家臣の抵抗は強固であり、10日間の攻撃でも伏見城は陥落せず時間ばかりが流れます。
そのため西軍・長束正家が長束領内に住む伏見城の甲賀衆の家族に危害を加える脅迫を行う策にでます。
この調略により頑強な伏見城の守りは崩壊。甲賀衆が場内各所に放火し、西軍が場内へなだれ込み、鳥居元忠が自決し、伏見城は陥落したのでした。この自決は、鈴木重朝との一騎討ちで鳥居元忠が討ち取られたとも言われます。
この伏見城の戦いは、関ケ原の戦いに至るまでに重要な時間稼ぎを行ったことが、最終的には東軍の勝利につながった原因の一つともとも言われた戦いであり、鳥居元忠は「三河武士の鑑」と称されることになります。
また、この伏見城の戦いで流れた血の跡を地天井として、京都各所のお寺に引き継がれています。養源院、宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、興聖寺などで血天井を見ることができます。
これが1600年(慶長5年)7月18日~8月1日のことであり、三成の決起から最初の前哨戦となった戦いです。
前哨戦2. 田辺城の戦い
田辺城の戦い
伏見城の戦いが始まった一日後の7月19日に丹波国(京都府舞鶴市)で田辺城の戦いが始まりました。
- 日付:1600年(慶長5年)7月19日-9月13日
- 場所:丹波国(現・舞鶴市)
- 兵力:西軍・小野木重次軍1万5千 VS 東軍・細川幽斎軍500人
田辺城を守る細川幽斎は500の兵しかおらず、小野木重次率いる西軍は15000の兵力で包囲。
包囲された幽斎は500の兵と共に籠城策を取ります。
細川幽斎は軍略家でもあり、文化人としても有名で、歌人の三条西実枝から歌道の奥義「古今伝授」を受け継いでいます。
そのため、後陽成天皇が細川幽斎の命を惜しみ、勅命を下して9月13日に田辺城は開城となりました。
しかし籠城策が功を奏し、約二か月間も耐え続けた結果、小野木軍15000人は関ケ原の戦い本戦に間に合わない事態となったのでした。
前哨戦3. 上田城の戦い(真田幸村)
上田城の戦い
石田三成の挙兵を聞いた家康は西に進軍を開始。また、家康の子・徳川秀忠は38000の兵を従え、家康とは別に中山道から西へと進軍。
秀忠の進む中山道には上田城があり、真田昌幸と信繁親子が守っていました。
- 兄は東軍の真田信幸
- 父は西軍の真田昌幸
- 弟は西軍の真田信繁(幸村)
1600年9月5日に徳川秀忠は上田城に到着すると、真田昌幸に降伏するよう告げます。
これに対し真田昌幸は受け入れるふりをして時間を稼ぎ、戦闘準備を整えます。
真田の城には上田城と砥石城があります。上田城が本丸、砥石城が支城となっており、真田信繁(幸村)は、砥石城で東軍の兄・真田信幸と戦います。
親兄弟が敵側にいるため、徳川家に忠義を試される真田信幸のために、真田信幸(幸村)は少し戦うと敗走し、砥石城を明け渡し、本丸の上田城に後退します。
信繁を追い、秀忠は多くの兵力で強襲しますが、真田の待ち伏せ策にハマり時間ばかりが過ぎていきます。
とうとう家康から上洛命令届き、9月11日には上田城攻略を諦め美濃・関ケ原に向かうのでした。
前哨戦4. 石垣原の戦い
石垣原の戦い
- 日付:1600年(慶長5年)9月13日
- 場所:豊後国石垣原(九州)
- 兵力:東軍・黒田官兵衛軍1万 VS 西軍・大友義統軍2千
石田三成が挙兵した際、黒田官兵衛の息子・東軍の黒田長政は徳川家康の会津征伐(上杉景勝討伐)に参加していました。
そのため黒田官兵衛はわずかな兵で九州の豊前中津城におり、この時西軍の敗走を予想し九州で領土拡大に邁進します。
黒田官兵衛は杵築城の大友義統を撃破。
そうこうしているうちに関ケ原の戦いが数時間で終わってしまい、領土拡大や天下統一を目論む黒田官兵衛の野望も関ヶ原の戦いと共に終わりを迎えたのでした。
前哨戦5. 杭瀬川の戦い
杭瀬川の戦い
- 時期:1600年(慶長5年)9月14日
- 場所:美濃国杭瀬川
- 西軍・島左近 VS 東軍・中村一栄
杭瀬川の戦いとは
1600年(慶長5年)9月14日、徳川家康が美濃赤坂に着陣。西軍では到着した家康軍を見て、動揺し逃げ出す者も出る始末。
この状況を見た島左近は、東軍に前哨戦を仕掛け、勝利することで西軍の動揺を鎮める進言をします。
杭瀬川を挟み東軍と対峙した島左近軍。伏兵を隠し、東軍を挑発。これに乗った東軍・中村一栄軍と戦い、負けて逃げ、東軍に追われる状況を作り出します。
しかしこれは相手への陽動作戦であり、追ってきた東軍・中村一栄軍を隠れていた伏兵の銃撃や、明石全登軍も加わり、東軍が40名ほどの死者を出し、西軍の勝利となりました。この島左近の活躍により、家康軍を見た西軍の士気は下がらずに上がったのでした。
島左近とは
- 出身:大和(奈良県)
- 生存:1540-1600(享年61歳)
- 本名:島清興
- 所属:西軍
島左近は元は筒井氏の家臣で、その後は浪人となり、誰にも仕えない浪人でした。
戦上手で有名であり、ここに目を付けた石田三成が自分の禄4万の領地を半分与えることや、熱心に説得することで家臣にすることに成功。
「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近に佐和山の城」
と言われるほどの人物で、石田三成の参謀になった後も、大津の戦いや、関ケ原の戦いで活躍し、東軍に恐怖を与えました。
島左近の最後は戦死説と生存説があります。
- 戦死説では関ケ原の戦いで黒田長政の軍に討たれた説
- 生存説では戦死認定がないため生き延びていたとされ、大坂で妻と娘と生きた説(娘は大坂天満宮の宮司と結婚したなど)
島左近はこの杭瀬川の戦いの後、関ヶ原の戦いでも活躍するのでした。
前哨戦6. 大津城の戦い
大津城の戦い
大津城の戦いは関ヶ原の戦い本戦へと続く前哨戦の一つです。関ヶ原の戦いが始まる直前に行われ、大津城の戦いが終わった日に関ヶ原の戦いが始まります。
それでは大津城の戦いをわかりやすく解説していきます。
- 日付:1600年(慶長5年)9月7日〜15日
- 場所:近江国大津城(琵琶湖にある)
- 兵力:東軍・京極高次軍3千 VS 西軍・毛利元康軍1万5千
初と浅井三姉妹
まず大津城の戦いの東軍・京極高次の妻は浅井三姉妹の初です。初(はつ)は織田信長の妹・市と浅井長政の間に生まれた娘です。
初には姉と妹がおり、浅井三姉妹と呼ばれます。姉は西軍、妹は東軍と関わりが深く、姉妹としては辛い戦いとなりました。
- 長女・淀殿:茶々が豊臣秀吉の側室で西軍・豊臣秀頼の母
- 次女・初 :東軍・京極高次の妻
- 三女・江 :淀殿や初の妹で東軍・徳川秀忠の妻、千姫の母で、後に徳川家光も産む
つまり、関ヶ原の戦いでは次のように分かれています。
- 東軍・徳川秀忠の妻・江と、京極高次の妻・初
- 西軍・豊臣秀頼の母・淀殿
さらに、江は徳川秀忠との間に千姫という娘がおり、千姫は西軍に担がれている豊臣秀頼と結婚することになり、大坂の陣へとつながっていく歴史となっています。
この関ヶ原の戦い・大坂の陣へ複雑な人間関係の間にいるのが、初であり、その初の夫が大津の戦いで大津城を守る京極高次なのです。
京極高次と大津城の戦い
では、関ヶ原の戦いへ京極高次がどう関わってくるのかを簡単に解説します。
- 近江の大津城主・京極高次が西軍へ参加
- 北陸攻めから美濃方面へ進撃する途中に西軍を裏切り大津城に籠城
- 西軍が美濃へ進む際に邪魔になるのが大津城
この3000人程度の大津城を、西軍の毛利元康・立花宗茂・小早川秀包ら約15000人で攻めます。しかし守りは固く攻め落とせず時間が過ぎていきます。
しかし西軍の大砲使用で戦況が一変し、大津城は降伏する流れになります。
- 1600年9月 7日 籠城が固く攻め落とせず
- 1600年9月13日 大砲で攻撃すると天守閣に命中
- 1600年9月15日 大津城は降伏開城
大津城の戦いは結果として、東軍・京極高次は負け、剃髪し高野山へと送られました。
しかしこの大津城の戦いは、結果的に関ヶ原の戦いへの勝利要因の一つとなっているのです。
その理由は、立花宗茂など戦力の高い武将や15000人の軍が、関ケ原の戦いに参加できなかったこと。これが西軍の敗北に影響したとされています。
また、この大津城の戦いが終わった1600年9月15日に美濃・関ヶ原で関ヶ原の戦いが始まり、その日のうちに勝敗がつくことになるのでした。
- 1600年9月15日大津城の戦い終了
- 1600年9月15日関ヶ原の戦い開始・終了
そのため、京極高次が早い段階で降伏していた場合、関ヶ原の戦いに立花宗茂や毛利元康、小早川秀包、筑紫広門ら15000人の兵が到着することになり、勝敗が変わっていたのかもしれないということになる合戦が大津城の戦いなのでした。
立花宗茂とは
大津城の戦いに参加している立花宗茂は、その武勇から豊臣秀吉に独立大名として認められた人物で、元は大友宗麟の配下で活躍した武将。
島津義久が九州統一を進めた際、主家が降伏しても立花宗茂は抵抗を続けるなどの逸話もあります。
文禄・慶長の役で100万の明軍を破ったと言われるなど、宗茂の戦ぶりが評判となるなど、多くの強者がいる中でも特に武力が秀でていました。
そのため関ケ原の戦いでは敵だった徳川家康も、立花宗茂の実力を惜しみ、大名として初代柳川藩主にするなど、戦国時代の終わりをその才能で出世し歴史に名を残した人物です。
そのため大津の戦いで京極高次により立花宗茂が関ヶ原の戦いに到着できなかったという事は、石田三成ら西軍にとっては大きな痛手となり、東軍・徳川家康にとっては重要な勝因となっていたとも言えるのでした。
3. 関ヶ原の戦い(本戦)
1.徳川家康の小山会議
上杉景勝を討伐するため会津(福島県)へ進軍する徳川家康。その途中、家康が江戸まで来た際に石田三成を中心とする西軍が決起したと情報が入り、関ヶ原の戦いの前哨戦が始まっていきます。
これにより家康は会津征伐を中断し、小山会議(おやまかいぎ)を開きます。小山会議とは下野(栃木県)の小山で、家康が大名たちの意見を聞いたというものです。
その結果、1600年(慶長5年)7月末に、東軍(家康)に味方する大名が集まり、石田三成ら西軍を討伐するため関西に進軍を開始するのでした。
ここまでが関ヶ原の戦い本戦をむかえるまでの経緯であり、流れとしては次のようになります。
- 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で石田三成が大名から恨まれる
- 秀吉の死、前田利家の死で抑えがきかなくなった大名が石田三成を襲撃
- 家康により石田三成は隠居処分になり、家康の大坂入りで天下人の噂が出る
- 家康による会津征伐(上杉景勝討伐)
- 石田三成らの西軍決起
- 徳川家康らの小山会議
- 西軍・東軍が関ケ原方面へと進軍
それでは関ヶ原の戦い本編をお読みください。
2. 関ケ原の戦い
関ケ原の戦い(本戦)
関ヶ原は東西15km、南北7kmの規模。
その中の笹尾山に本陣を構える西軍・石田三成。
桃配山に本陣を構えた東軍・徳川家康。
- 時期:1600年(慶長5年)9月15日-同日終了
- 場所:美濃(岐阜県)関ケ原
- 東軍:徳川家康75000人
- 西軍:石田三成80000人
1. 午前(8時頃・10時頃)
- 1600年7月17日午前8時頃霧が立ち込める戦場
- 井伊直政軍の発砲で戦闘開始
- 西軍優位の中、徳川家康が石田三成本体前に進軍
東軍・井伊直政と松平忠吉が西軍・宇喜多秀家に発砲。
東軍・福島正則が宇喜多秀家へ突撃。
西軍・宇喜多秀家軍の明石全登が反撃。
東軍・黒田長政、細川忠興、加藤嘉明の部隊が石田三成の部隊を攻撃。多くの東軍兵を島左近が撃退。
関ケ原の戦い開始から2時間。次の西軍部隊が奮戦し、西軍が有利な状況で戦が進んでおり、勝機と見た石田三成は狼煙を挙げ総攻撃を図りますが、毛利秀元軍や島津義弘軍などは動かず。
さらに黒田長政が狙撃部隊により、西軍・島左近が銃弾で負傷します。
- 毛利秀元、動かず
- 小早川秀秋、動かず
- 島津義弘、動かず
- 島左近、負傷
石田三成の思惑通りに行かない状況となっていましたが、西軍有利は変わらずの状況となっていました。
2. 正午(12時頃)
小早川秀秋は事前に徳川家康と密約を交わしており、裏切る算段でした。しかし、午後になっても動こうとしない小早川秀秋。
これに対し徳川家康は小早川秀秋の部隊に発砲。この発砲により小早川秀秋は裏切りを決断し、15000の部隊で600人程度の大谷吉継へと強襲。
大谷吉継の部隊は、15000の小早川秀秋勢をわずかな兵力で追い返す力を発揮します。しかし、西軍の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保軍ら4隊も西軍を裏切り、大谷吉継を側面から攻撃し、死期を悟った大谷吉継は自刃し果てます。
3. 午後(14時、15時頃)
東軍の福島正則との戦いを有利に進めていた西軍の宇喜多秀家。しかし、側面から小早川秀秋ら裏切り部隊に襲われ壊滅。石田三成、小西行長らは関ケ原を離脱。
流れが変わった西軍は、島津義弘1500ほどの兵が残るのみ。
島津軍は義弘を逃すため、小部隊を死ぬまで戦わせ敵を足止めさせる捨て奸戦法で徳川家康本陣へと突撃。多くが屍となる中、島津義弘ら少数が敵中突破しつつ関ケ原からの離脱に成功し薩摩へ帰還しました。
こうして関ケ原の戦いは東軍・徳川家康の勝利に終わったのでした。
4. 関ケ原の戦い、その後
佐和山城の戦い
佐和山城の戦い
- 時期:1600年9月15日~18日
- 場所:近江国小谷
- 兵力:東軍・小早川秀秋軍・2万 VS 西軍:石田正継2800
関ケ原の戦いは2時間~6時間の短期決戦だったと言われています。
負けた石田三成は近江伊香郡の山中へ逃亡。徳川家康は石田三成の居城である佐和山城へ小早川秀秋を派遣しました。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
でうたわれている佐和山の城です。
- 石田正継(いしだまさつぐ):石田三成の父
- 石田正澄(いしだまさずみ):石田三成の兄
- 兵力:2800
圧倒的な兵力の東軍・小早川秀秋の軍勢に追い詰められた石田正継の軍。東軍から講和の伝令があり、石田正継たちは西軍の敗北を知ることになります。
石田正継、石田正澄らの切腹を条件に、女・子供を助けることとし、徳川家康も了承。
しかし、事情が伝わらない東軍兵たちが佐和山城に攻め込み、石田一族は女・子供も含め自害し、佐和山城の戦いは終焉となった戦いが佐和山城の戦いです。
長谷堂城の戦い
長谷堂城の戦い
- 時期:1600年9月15日~30日
- 場所:出羽国(山形県)長谷堂城
- 東軍:最上義光10000人
- 西軍:直江兼続25000人
出羽国長谷堂城は現在の山形県山形市。
直江兼続
徳川家康を激怒させた直江状を書いたと言われる人物で、直江兼続は1600年9月米沢城から出陣。最上氏の拠点を次々に落とし、長谷堂城を攻撃。
- 上杉景勝の側近
- 愛の文字の兜をまとう
- 石田三成の盟友
長谷堂城は最上義光の最大の支城で兵力は直江兼続軍の10分の1以下。
しかし名将・志村光安と地形の妙により、直江兼続軍は攻めあぐねていました。
最上軍は援軍を得て兵力も1万ほどに増強し、直江兼続も総攻撃をしかけます。
この時、直江兼続のもとに西軍敗北と石田三成行方不明の知らせが届き、兼続は戦う理由がなくなったことを悟ります。
そして自らしんがりを務めながら米沢城へ退却したのでした。
関ヶ原の戦い後、大坂の陣へ
関ヶ原の戦いの後、佐和山城の戦いや、長谷堂城の戦いを経て、姿を眩ましていた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らは囚われることになります。
結果として石田三成らは京で斬首。徳川家康の天下は事実上確定し、関ヶ原の戦いで東軍についた大名には西軍の領地が与えられ、西軍の大名は処罰を受けることになります。
また、徳川家康は関ヶ原の戦いから3年後の1603年に征夷大将軍となり、天下を握ります。しかし豊臣秀頼は健在であり、豊臣家を完全に滅亡させる必要がありました。
そのため、豊臣家 VS 徳川家に分かれた大坂冬の陣・大坂夏の陣へ歴史は続き、関ヶ原の戦いで活躍した多くの戦国大名が大坂の陣で再度活躍することになるのでした。
5. 関ヶ原の戦い人物事典(東軍)
ここからは関ヶ原の戦いで活躍した武将について解説していきます。まずは東軍の「関ヶ原の戦い人物事典」としてお使いください。
井伊直政
井伊直政
井伊直政は、徳川家康の家臣で、徳川四天王の一人。かなりの美男子だったと言われる人物です。
- 出身:遠江(静岡県)
- 生没:1561年2月19日-1602年2月1日
- 享年:42歳
武田氏の赤備え部隊を家臣として引継ぎ、井伊の赤鬼と言われるほどの活躍をみせ、徳川四天王の中でも最も出世しています。
関ケ原の戦いでも先方は福島正則が務める予定でしたが、井伊直政が勝手に先方を務め合戦が始まるなどのエピソードがあります。
しかし関ケ原の戦いでは大きな傷を受け、関ケ原の戦いから2年後の1602年に42歳で病死しています。
黒田官兵衛
黒田官兵衛
- 出身:播磨(兵庫県)
- 生存:1546-1604(享年59歳)
- 関ケ原の戦いの4年後に死去
黒田官兵衛は豊臣秀吉を天下人に導いた天才軍師です。秀吉の両兵衛と言われた一人です。
秀吉の両兵衛とは次の二人。
- 竹中半兵衛
- 黒田官兵衛
この2人が豊臣秀吉の軍師として天才的軍師としての才能を発揮し、秀吉は天下人となります。
黒田官兵衛は10代で母を亡くし、その悲しみから逃れるために読書漬け日々を送ります。そこで兵法書などを読み込んだと考えられています。
播磨(兵庫県)の御着城主、小寺政職に父と共に仕えます。
戦国の世を小寺家が生き延びるためには、織田信長に従うことを官兵衛が提案し、小寺家は織田家の配下になりました。
しかし、小寺政職は信長を裏切り、荒木村重側につきます。
信長の命令で黒田官兵衛は、荒木村重の有岡城にいる小寺政職の説得に出向きます。しかし官兵衛は幽閉されたのでした。
信長は帰ってこない黒田官兵衛を裏切り者と考え、息子の黒田長政を殺すよう秀吉らに命令します。その後、黒田官兵衛は救出されます。
息子の黒田長政は殺されたことになっていましたが、秀吉の両兵衛の一人・竹中半兵衛によって匿われ、生存していたのでした。
その後、秀吉と共に官兵衛は中国地方の毛利氏を攻略に遠征します。毛利氏との戦いの最中、本能寺の変で織田信長が死んだことを中国地方で聞いた秀吉に対し、天下を取れるチャンスだと耳打ちしたのが黒田官兵衛と言われています。
天下を取った豊臣秀吉でしたが、朝鮮出兵の指示を出し数年後に死去。秀吉の死をきっかけに関ヶ原の戦いが起こります。
この関ケ原の戦いで黒田官兵衛は九州で領土を広げ、天下統一を狙っていたとも言われますが、想定外に関ケ原の戦いが数時間で終わってしまい、その野望は叶わなかったとも考えられています。
特に、息子の黒田長政が関ケ原の戦いでの活躍で、徳川家康からねぎらわれ接近した際に、なぜ家康をもう片方の手で刺さなかったのかと叱責したという逸話があるのも黒田官兵衛の野望を裏付けるエピソードと言えそうです。
黒田長政
黒田長政
黒田長政は、豊臣秀吉を天下人にした天才軍師・黒田官兵衛の長男。
1. 天才に救われた幼少期
幼少期、秀吉の部下であった黒田官兵衛が織田信長に裏切り者疑惑をかけられ、子の黒田長政を殺すよう言われます。
しかし黒田長政はもう一人の天才軍師・竹中半兵衛に救われます。
その後、父・黒田官兵衛は裏切り疑惑が晴れ、黒田長政も生存を信長に報告されましたが、信長は逆に安堵したと言われています。
2. 関ヶ原の戦いでの黒田長政
織田信長、豊臣秀吉に仕えましたが、秀吉が亡くなると、石田三成と対立し、関ケ原の戦いで徳川家康の東軍につきます。
関ケ原の戦いで勝敗を分ける最大の要因となる小早川秀秋の裏切りを画策したのが黒田長政です。
また、他に寝返り策や、戦場でも黒田長政の兵が島左近を銃で負傷させるなど関ヶ原で活躍しました。
3. 関ヶ原の戦いでの結果
そのため、関ケ原の戦いで勝利した東軍・総大将の徳川家康が黒田長政の手を取り感謝したというエピソードがあります。
これを父・黒田官兵衛に話すと、手を取り感謝されたときに、なぜ家康を殺さなかったのか、天下を取れたものをと怒られたという話があります。
黒田長政は関ケ原の戦いの功績により、筑前(福岡県)52万石の領地を与えられました。
徳川家康
徳川家康
徳川家康は関ヶ原の戦いの東軍総大将です。
- 出身:三河(愛知県)
- 生没:1542年12月26日-1616年4月17日
- 享年:75歳
幼少期にさらわれ、織田家・今川家の人質として成長しますが、ここで今川義元の軍師・太源雪斎から優れた教育を受け、実力をつけながら成長することができました。
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を倒したことにより自由になります。
その後、三河を支配し、信長と清州同盟を結びますが、息子・信康を織田信長の命令で自害させられるなど、織田信長との関係には同名と言いつつも上下関係があった模様。
その織田信長が明智光秀により本能寺の変で自害すると、羽柴秀吉が光秀を倒し地位を引き継ぎます。
これに不満を持った信長の次男・織田信雄が家康に近づき、秀吉と戦うことになります。
しかし、信雄が秀吉と和平を結び、結果的に家康が秀吉の臣下となり秀吉政権でNo.2としての地位に就くことになったのでした。
その秀吉が死ぬと、石田三成と各大名が豊臣政権について対立。その対立を利用し、家康は天下を狙い各大名と姻戚関係を強めるなどして権力を拡大。
これを懸念した石田三成が徳川家康を糾弾する手紙を各大名に送ることで、家康もついに関ケ原の戦いに向けて動き出し、石田三成をはじめとする豊臣側の大名の集まりである西軍を倒します。
福島正則
福島正則
福島正則ふくしままさのりは、幼少期から豊臣秀吉に仕えた人物で、母が豊臣秀吉のおばという関係。
そのことからも豊臣家への情が深く、関ケ原の戦いでも東軍に参加するとは思われなかった人物です。
- 出身:尾張(愛知県)
- 生没:1561年-1624年7月13日
- 享年:64歳(病死)
同じように豊臣秀吉に幼い頃から仕えていた石田三成とは犬猿の仲で、文禄慶長の役で決定的に関係が悪くなり、関ケ原の戦いでは徳川家康側の東軍に参加したというわけです。
関ケ原の戦いでも活躍し、東軍の勝利に貢献します。その結果、広島藩50万石を与えられます。
細川忠興
細川忠興
細川忠興は、ガラシャの夫。ガラシャは明智光秀の娘で、美人と評判でした。
1. 明智光秀との関係
細川忠興の父は細川藤孝で、元々は足利義昭に仕えていました。
明智光秀、そして細川忠興は同じように足利義昭に仕えた後、義昭と対立した織田信長に仕えます。
明智光秀が本能寺の変を起こす直前に、光秀から共に信長を倒すよう誘いがありましたが、忠興はそれを断っています。
2. ガラシャへの異常な愛
本能寺の変により、妻・ガラシャが裏切り者の娘となりますが、忠興はガラシャを異常なほど愛しており、丹後(京都府)に隠しました。
異常なほどの愛情は、庭師がガラシャを見た(もしくは挨拶した)だけで嫉妬して切り殺すという事件を起こしているからです。
3. 細川忠興の関ヶ原の戦い
細川忠興はガラシャを隠していましたが、豊臣家で活躍。豊臣秀吉の死後は石田三成と対立し、関ケ原の戦いで東軍・徳川家康につきます。
その際、西軍にガラシャを人質に取られることを想定し、人質にされることがあれば自害するようガラシャに伝えていました。
ガラシャはこれを実行し、西軍に人質にされる前に家臣に胸を突かせて死んでいます(キリスト教のため自害はできなかった)。
ガラシャを失いつつも、関ケ原の戦いには勝利した細川忠興は、豊前(福岡県)小倉藩40万石を与えられています。
- 出身:山城(京都府)
- 生没:1563年11月13日-1645年12月2日
- 享年:83歳(病死)
山内一豊
山内一豊
山内一豊は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国時代を代表する人物の家臣であり、最終的に土佐一国の大名になった人物です。
- 尾張(愛知県)
- 生没:1546年-1605年9月20日
- 享年60歳(病死)
1. 妻千代の内助の功で出世
山内一豊には千代という賢い妻がおり、内助の功で一豊を助け夫婦の力で出世したと言えるエピソードがあります。
千代は自分のへそくりで名馬を買い、織田信長から一豊が一目置かれるように助けるなど、織田信長の家臣時代から内助の功を発揮し、一豊の出世を助けます。
2. 関ヶ原の戦いでも内助の功
そして時代が流れ、徳川家康が会津征伐に向かう途中(関ケ原の戦い開始直近)に、石田三成が徳川家康を倒すため、戦いを始めたことを一豊に知らせます。
この手紙により、一豊は小山会議で自分の掛川城を家康に使うよう伝え、味方することを誓います。
これが呼び水となり、他の武将も家康に味方するようになったとも言われており、関ケ原の戦いで勝利した家康は、山内一豊を土佐藩(高知県)の初代藩主としたのでした。
6. 関ヶ原の戦い人物事典(西軍)
ここからは関ヶ原の戦いの西軍人物事典としてご活用ください。
石田三成
石田三成
近江国(滋賀県)の長浜城は、琵琶湖の近くにあります。
1. 豊臣秀吉との出会い
琵琶湖とは反対方向に近江国坂田郡石田村があり、この石田村の観音寺に15歳の石田三成(当時は佐吉という名前)が寺小姓として学んでいました。
ここに鷹狩りに来た羽柴秀吉が立ち寄ることが秀吉と三成の出会いになります。
- 石田三成
- 出身:近江(滋賀県)
- 生没:1560年-1600年10月1日
- 享年:41歳
豊臣秀吉が長浜城(滋賀県)の城主になった頃、鷹狩の途中に寺に訪れた秀吉が茶を所望すると、小坊主だった三成がお茶を運んできます。
- 一杯目は、量が多めのぬるい茶
- 二杯目は、半分くらいのやや熱めのお茶
- 三杯目は高価な小茶碗で少量の熱いお茶
このように秀吉がどのようなお茶を飲みたいのかを的確に察し、ふるまいました。
この振る舞いにより三成の才能を見出した秀吉が三成を長浜城に連れ帰り家臣にしたという三献茶のエピソードが有名です。
2. 親友・大谷吉継
また、関ケ原の戦いでも活躍する大谷吉継とは親友の間柄で、大谷吉継ともお茶がきっかけで友情が芽生えます。
ある茶会で茶を回し飲みする際、大谷吉継が、らい病(ハンセン病)のような病気にかかっており、見た目も顔を隠さないといけないほどの状況でした。
その茶碗に同じように口をつけ茶を飲むことを誰もが避ける中、石田三成がその茶をすべて飲み干すという振る舞いをします。
この時から大谷吉継は三成との間に強い友情が芽生え、関ケ原の戦いへも三成を助けるために参加したと言われています。
3. 石田三成の才能
このようなお茶で人の心を掴んだ三成は、戦闘向きの人間ではなく、合戦の準備や内政業務に長けた抜群の才能を持っていました。
合戦をする際の兵士や武器、食料調達・配達など、準備が誰よりも適格でした。そのため秀吉に可愛がられ重宝されます。
しかも30万石ほどの出世を秀吉が与えると、三成は断り、豊臣秀吉の元で働くことを希望するという選択します。目先の出世にとらわれない性格も持ち合わせ、秀吉への忠義も厚かったのです。
4. 石田三成が作った関ヶ原の戦いと結末
しかし朝鮮出兵の文禄慶長の役では、体調不良で寝込む秀吉の代わりに日本から命令や連絡等を行っており、これが朝鮮で戦う現場の大名たちと意見が食い違い大批判を受ける結果になります。
こうして恨まれた石田三成と対立する大名たちが石田三成排除の動きを見せ、徳川家康を頼ります。
石田三成は豊臣家存続への強い思いから反発し、関ケ原の戦いへと発展していきました。結果として石田三成は敗北。京都六条河原で斬首され生涯に幕を閉じることになります。
上杉景勝
上杉景勝
上杉謙信の甥で、謙信が病死したため、謙信のもう一人の養子である長尾景虎と跡継ぎの座を巡り争いました。これを小舘の乱といいます。
小館の乱で上杉家を継いだ上杉景勝は、豊臣秀吉に味方して働き、朝鮮に出兵して戦った文禄・慶長の役でも活躍し、帰国後会津(福島県)120万石となりました。
しかし、関ケ原の戦いでは徳川家康と対立し敗北。そのため、大きく領地を減らされていますが、上杉家は存続することが許されました。
ちなみに上杉景勝の部下には有名な直江兼続がいます。
宇喜多秀家
宇喜多秀家
- 宇喜多秀家は豊臣秀吉の養子
- 文禄の役では総大将を務めた
- 関ケ原の戦いでは西軍の主力
宇喜多秀家は岡崎城主・宇喜多直家の子です。
羽柴秀吉が毛利氏と戦う際に、この岡崎城が欲しかったため、秀吉が養女にしていた豪姫を宇喜多秀家と政略結婚をさせます。
その宇喜多秀家は四国攻め、九州攻め、文禄・慶長の役で武功を上げ、20代で五大老になる出世頭でした。
秀吉が死に、関ケ原の戦いでは西軍の副大将となりますが、西軍が敗北。その後は同じ西軍だった島津氏を頼り、九州に身を隠します。
その後、島津氏が徳川氏が同盟を結んだため、宇喜多秀家は八丈島へ島流しになるのでした。
島流になった後も、妻の豪姫は秀家に生活費を送り続けたと言われています。その甲斐があってか、宇喜多秀家は八丈島で84歳まで生き病死しています。
小早川秀秋
小早川秀秋
小早川秀秋は関ヶ原の戦いで西軍を裏切った人物として有名。
1. 高台院の甥から養子になった小早川秀秋
小早川秀秋は高台院の甥。高台院は豊臣秀吉の正室のねねのことであり、秀吉の親戚なのです。
詳しくは、木下家定が秀吉の妻ねねの兄で播磨姫路城主(兵庫県姫路市)。その木下家定の子が小早川秀秋ということです。
- 木下家定(秀秋の父)
- ねね(秀秋の叔母)
- 秀吉(秀秋の叔父)
豊臣秀吉はなかなか子ができず、子ができてもすぐに死んでしまったため、後継として高台院の甥である小早川秀秋を養子に迎えます。甥ということもあり高台院は小早川秀秋を可愛がります。
しかし1593年(文禄2年)に秀吉と側室茶々の間に秀頼が生まれます。
秀吉の血筋である秀頼の誕生により、親戚だった秀秋は後継者から外され、豊臣家ではなく小早川隆景の養子となるのです。
2. 小早川隆景の養子となり筑前名島城主となる
小早川秀秋の父である小早川隆景とは、毛利元就の3男です。小早川隆景は1年で家督を譲り引退。さらにその2年後で病死します。
ちなみに、隆景の甥に、毛利輝元がおり、この毛利輝元はのちに関ヶ原の戦いで西軍の総大将になる人物です。小早川秀秋も毛利輝元と同じ西軍に所属することになります。
3. 小早川秀秋が寝返った理由
小早川秀秋は筑前名島城主となり、第二次朝鮮出兵に参加。戦で自ら奮戦するも、総大将らしからぬ振る舞いをしたと、石田三成の報告で秀吉の耳に入り、小早川秀秋は越前(福井県)へ転封(国を替えられる降格のようなもの)されます。
しかし、豊臣秀吉が病気で死ぬと、徳川家康の協力で名島城主に復帰します。この協力が関ヶ原での小早川秀秋の裏切りにつながります。
小早川秀秋は家康の口添えに恩を感じており、叔母の高台院も書状で関ヶ原の戦いへの参戦は徳川方へ加担するよう勧めていたのでした。
こうした経緯で関ヶ原の戦いで、小早川秀秋は西軍から東軍へ寝返る要因を持つことになります。
4. 関ヶ原の戦いでの小早川秀秋
小早川秀秋は、関ケ原の戦いでは西軍に所属します。しかし石田三成を裏切るよう東軍の黒田長政が持ちかけると、その案に乗り、関ケ原の戦い中に西軍を裏切るのです。
その結果、関ケ原の戦いは東軍が勝利するという、戦況を左右する裏切りを行った人物が小早川秀秋なのです。
小早川秀秋は勝利の褒美として、家康から岡山藩57万石を与えられます。しかし関ヶ原の戦いから2年後に21歳で病死し、人生に幕が下りました。
- 出身:近江(滋賀県)
- 生没:1582年(天正10年)- 1602年(慶長7年)
- 地位:備前岡山藩主
- 享年:21歳
真田昌幸
真田昌幸
真田昌幸は一言で言うと徳川家の天敵。徳川家康や秀忠を翻弄する実力者で、関ヶ原の戦いでも活躍した人物です。
- 出身:信濃(長野県)
- 生存:1547-1611(享年65歳)
- 息子:真田信之・真田信繁(真田幸村)
1. 真田昌幸という人物
真田幸隆の子です。真田幸隆は武田信玄や武田勝頼の家臣であり、真田昌幸も幼少期から武田信玄の元で育ちます。また、真田幸村の父でもあります。
真田昌幸の武田家家臣の時代は足軽大将で、長篠・設楽原の戦いで2人の兄が死に真田家を継ぎます。
真田昌行は主君が敗れるたびに、次のように主君を変え生き延びます。主君を変えることから表と裏を使い分ける卑怯者とも言われ警戒されました。
しかし、豊臣秀吉からは表裏比興の者という言葉で、その知謀・実力を褒め称えられている部分もあり、周りから一目置かれる人物だったことがわかります。
2. 真田昌幸と徳川家康
この主君を替えて生き延びる際、徳川家康に攻め込まれることになります。これが第一次上田合戦ですが、家康が7千の兵で攻めますが、真田昌行は2千の兵で家康を打ち負かします。
3. 真田昌幸と関ヶ原の戦いの功績
さらに関ヶ原の戦いの前哨戦とも言うべき第二次上田合戦でも、家康の息子である徳川秀忠を翻弄し、38000の軍勢を関ケ原に遅刻させるという知略を見せます。
結局徳川軍に負けず、知略を駆使して生き延び、真田幸村にその知略などを継がせることにも成功しています。
また、関ヶ原の戦いでは、真田信之と真田信繁(幸村)という自分の息子を西軍・東軍に分け、真田家の血を絶えさせない方法を取るなど、知謀に優れた武将です。
本人は関ヶ原の戦いの後、病死しています。
島左近
島左近
- 出身:大和(奈良県)
- 生没:?-1600年
- 本名:島清興
島左近は、三成に過ぎたるものが・・・で有名な武将。
石田三成が自分の石高4万石のうち、半分を島左近に与えることで家臣にスカウトした話が有名です。
その甲斐あって1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いでは島左近が怖すぎてだれもそのいでたちを覚えていなかったと言われるほど恐怖で敵を圧倒しますが、黒田長政の鉄砲隊にやられ戦死したと言われています。
しかし、島左近の遺体は見つからず、そのため実は死んだのではなく傷を受けた後に消息が分からず、娘と共に暮らしていた説なども出ているのが島左近です。
元々は大和(奈良県)の筒井貞次の家臣でしたが、他の重心とのトラブルになり、浪人となります。
その後、石田三成からスカウトされ、徳川家康への奇襲策を2度ほど石田三成に進言しますが、義にこだわる石田三成は左近の意見を採用しませんでした。
結果的に石田三成も島左近も関ケ原で敗北することになるのでした(もしくは生き延び娘と暮らす説あり)。
また、島津義弘が夜襲策を提示すると、島左近がこれを退けますが、これがきっかけで島津義弘が関ケ原の戦い当日に兵を動かさなかったとも考えられています。
島津義弘
島津義弘
島津義弘は、薩摩の戦国大名・島津貴久の次男。
1. 島津義弘とは
長男・義久と共に、薩摩・大隅・日向など、南九州(宮崎県-鹿児島県)付近を支配していた大名です。
- 薩摩(鹿児島県)
- 生没:1535年7月23日-1619年7月21日
- 享年:85歳
島津義弘は羽柴秀吉が九州攻めで戦った大名で、先頭に立ち戦う勇猛な性格です。
兄・義久が降参を決めますが、義弘は最後まで戦うことを主張。結果は兄の説得により降伏に従いました。
2. 関ヶ原の戦いでの島津義弘
島津義弘は関ケ原の戦いでは西軍に参加しますが、薩摩での内乱のため1500の兵しか参戦できませんでした。その結果、東軍の徳川家康に敗北します。そのこともあり、島津義弘は「5000の兵がおれば勝ってみせたものを」と言ったと伝わっています。
また、関ヶ原の戦いでは最後まで戦場に残っており、西軍敗北の際には島津の退き口と呼ばれる壮絶な撤退方法で関ヶ原を離脱しています。
この正面突破の撤退戦術を(「捨て奸」)と言い、捨て奸は1500の部隊を小分けにし、死ぬまで敵を足止めさせることで島津義弘ら本隊を逃すという壮絶なもの。
捨て奸により大量の犠牲を出しつつも島津義弘は薩摩に帰還することができました。
3. 幕末につながっている関ヶ原の戦い
ちなみにこの島津の退き口際に、徳川四天王の井伊直政も島津隊を追撃しましたが、井伊直政は島津軍の銃で負傷。
その傷が元で井伊直政は関ヶ原の戦いから1年半後に亡くなるなど、島津軍の強さが垣間見えるエピソードが残っています。
そのためか島津義弘を恐れた徳川家康は、関ケ原で敵だった島津家の領地を減らさずに残すという異例の対応をしたのでした。
しかしこの徳川家康が残した領地で育った薩摩武士たちが時を経て力をつけ、関ヶ原の戦いから約260年後、幕末になると徳川幕府と尊王攘夷派の薩摩の歴史的対立に繋がります。最終的には江戸城無血開城を行う薩摩の西郷隆盛と、徳川将軍家や江戸幕府という薩摩・徳川の戦いに繋がっているのです。
また、井伊直政の子孫である井伊直弼暗殺にも薩摩藩士が関わるなど、江戸時代の終わりにつながる要因が関ヶ原の戦いで作られているのでした。
立花宗茂
立花宗茂
立花宗茂は、大友宗麟の家臣でしたが「宗茂、無双」と言われるほど優れた武将であったため、敗北しても大名に出世する稀有な人物です。
- 出身:豊後(大分県)
- 生没:1569-1642年11月25日
- 享年:74歳(病死)
立花宗茂は15歳で立花道雪の養子になります。
立花道雪は雷に撃たれ半身が動きませんでしたが、優れた武将であり、親友である高橋紹運の息子である15歳の宗茂を養子にし、鍛え上げたのでした。
そして成長した立花宗茂は、大友宗麟の家臣から秀吉の家臣になります。
- 薩摩の島津氏に大友宗麟が苦戦
- 立花宗茂が少数で島津軍を破る活躍をする
- 豊臣秀吉が大友家を助け、立花宗茂は秀吉の家臣となる
秀吉の元でも活躍し、秀吉から「宗茂、無双」と言われました。
その後、秀吉が死ぬと、徳川家康から家臣になるよう誘いがあります。しかし立花宗茂は徳川家康の敵として、関ケ原の戦いでは西軍に所属。
結果的には徳川家康ら東軍が勝利し、関ケ原の戦いは幕を閉じました。
西軍が負けたことにより立花宗茂は浪人となりますが、その能力が評価され柳川藩(福岡県)の藩主となっており、他の敗北した西軍武将たちとは違う待遇となり出世した人物です。
直江兼続
直江兼続
直江兼続は、上杉景勝の家臣です。上杉景勝が11歳の時、兼続が6歳で上杉家の家臣となります。
幼少期から賢かった兼続は豊臣秀吉からも評価が高く、家臣にしたいという申し出が何度もあったとのこと。
しかし、兼続は上杉景勝以外に仕えないとし、秀吉の申し出を断っています。
関ケ原の戦いでは直江状と呼ばれる手紙を徳川家康に出し、家康を激怒させ、関ケ原の戦いの一要因を作ったと言われています(直江状が無かった説もあり)。
東軍の伊達政宗や最上義光と長谷堂城の戦いで戦いますが、徳川家康が石田三成を下し、東軍の勝利が決まると、敗北を認めます。
その結果、上杉景勝と米沢(山形県)に移住しました。
- 出身:越後(新潟県)
- 生没:1560年-1619年12月19日
- 享年:60歳
毛利輝元
毛利輝元
毛利輝元は中国地方を支配していた毛利元就の孫。11歳で毛利家を継ぎ継続して中国地方を支配し、関ケ原の戦いで西軍の総大将だった人物です。
- 出身:安芸(広島県)
- 生没:1553年1月22日ー1625年4月27日
- 享年73歳(病死)
1563年に父親が死に、家督を相続。若かった毛利輝元は、祖父の毛利元就の後見を受けました。
1. 毛利両川
毛利元就が亡くなると、元就の策である毛利両川と言われる方法で毛利家を守っています。
毛利両川とは他家へ養子に行き、その家の家督相続をし下記の2人から補佐され、毛利家を盛り立てる仕組みで、三本の矢の話が有名な結束して強くなる方法です。
ちなみに吉川の川、小早川の川の字から両川と名前がついています。
- 吉川元春 (元就の次男)
- 小早川隆景(元就の三男)
この毛利両川により毛利輝元は中国地方で勢力を拡大。しかし、羽柴秀吉が中国に攻めてきたため応戦していましたが、本能寺の変が起きたことで秀吉は京へ引き返すため和解します。
その後、秀吉が天下を取り、豊臣政権下に入ってからも120万石を与えられ、五大老の一員にも抜擢されます。
2. 毛利輝元の関ヶ原の戦い
秀吉が亡くなり関ケ原の戦いが起きますが、毛利輝元は石田三成の西軍の総大将になります。
しかし毛利輝元は大坂城から出陣せず戦わないという選択をします。
関ケ原で石田三成ら西軍が戦い敗れても、戦わず帰国するという態度を決め込みました。
3. 毛利輝元の関ヶ原の戦いと結果
東軍・総大将の徳川家康は、敗軍の将である毛利輝元から全領土を取り上げます。
毛利両川として毛利家を吉川家から支えていた吉川広家は、東軍・徳川家康に味方していたため、周防・長門(山口県)を褒美として与えれます。
この周防・長門を毛利輝元に譲りたいと徳川家康に願い出た結果、毛利輝元は周防・長門を領土とし、毛利家は存続できることになりました。
毛利輝元は関ヶ原の戦いの結果、36万石に減額され長州藩主(山口県萩市)になっています。