平将門の承平・天慶の乱をわかりやすく解説

07. 【歴史】合戦

菅原道真、崇徳天皇と並ぶ日本三大怨霊として有名な平将門。東京の大手町に首塚があることから現在も知名度の高い人物です。このページでは平将門の乱と言われる承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を周辺人物を含めわかりやすく解説していきます。

下記の文字を押すと、文章が開閉して読めます。順番に読むとわかりやすくなっていますが、興味のある部分からお読みください。

第1章 将門誕生と家系

第1章 将門誕生と家系

承平・天慶の乱の始まりは将門の家系に関わる内紛なので、まずは将門の家系について解説します。

将門の祖父・高望王

桓武天皇の血をひく高望王(たかもちおう)。この高望王が平将門の祖父です。坂東に住み、その5人の子が坂東に勢力を広げたという背景があり、その後平将門の乱に繋がっていきます。

桓武天皇 → 高望王 → 平良持 → 平将門

というよう、平将門の家系図は桓武天皇から始まっています。

高望王は平高望ともいい、桓武天皇の孫で、高望王流桓武平氏の祖と言われる人物です。

延喜東国の乱を討伐し、宇多天皇により平朝臣の名を賜り平高望と名乗るようになりました。

賜ったと言われますが、臣籍降下とって皇族がその身分を離れ臣下になることです。

高望王は上総介という官位で、上級国司として関東へ。この時、正室の子である長男国香、次男良兼、三男良将を連れていきいます。

高望王は任期が過ぎても帰京せず、常陸(ひたち)で力を持つ源護(みなもとのまもる)の娘を子供たちに嫁がせ、常陸以外でも婚姻を結び、在地勢力と姻戚関係を結ぶことで勢力拡大を図ります。

さらに周辺の土地を開墾し、生産力を高めるなどし関東に勢力を広げ、その権利を守るべく武士団を形成。これが高望王流桓武平氏の基盤になっていきます。

  • 常陸(ひたち)は国香が統治
  • 下総(しもうさ)は良持が統治
  • 上総(かずさ)は義兼が統治
  • 武蔵(むさし)は良文が統治

以上が将門の祖父である高望王の解説です。

また、高望王の時代は宇多天皇の側近としてのちに日本三大怨霊と呼ばれるようになる菅原道真がいます。

高望王は902年(延喜2年)太宰府に居住しますが、その翌年903年(延喜3年)に日本三大怨霊と言われる菅原道真が同じ太宰府で亡くなります。

この時代から高望王の孫の将門の時代は、非業の死を遂げた人間の怨霊が災いを起こすと考えられており、御霊信仰が大きく影響した時代でもあります。

将門の父・平良持

高望王の子で、平将門の親が平良持(たいらのよしもち)。良持は鎮守府将軍であり、高望王の子の中でも武勇に優れ、一族の中では出世頭という人物です。

鎮守府将軍とは、蝦夷(えみし)討伐のため、現在の岩手県にあった胆沢城(いさわのき)に派遣される、東国での対蝦夷の要の役職。派遣目的としては砂金入手や北方貿易が行えるようにするため。

この平良持が死ぬことで、財産を相続した将門が親戚から狙われることになり、平氏一族に内紛が起きるようになっていきます。

平将門の親戚たち

高望王の子は将門の父である良持以外に、良兼・国香・良正・良丈などがおり、良持を含め坂東と呼ばれる地域で勢力を築きます。そしてこの中で国香の子である平貞盛が将門のライバル的存在として成長していきます。

また、義理の父である良兼は将門に攻撃を仕掛けるなど、承平天慶の乱の発端は平氏一族の内紛になっています。

桓武天皇

高望王

平良持・良兼・国香(子は貞盛)・良正・良丈など

平将門

上記の図を理解しておくと、平将門の乱がわかりやすくなります。

ちなみに出世頭である鎮守府将軍・良持は父は高望王ですが、母不明。

良兼・国香は高望王の正室の子です。このことが平将門の乱につながる平氏一族の内乱の要因と考えると良兼・国香が父を失った将門を攻撃する動機が感じられるかもしれません。

平将門のライバル平貞盛

将門と貞盛は京に上ります。将門や貞盛以外も皆平氏一族やこの後登場する人物たちも皆、没落貴族であり、京の貴族社会に復帰したいという憧れがありました。

その京で出世コースを歩む将門と貞盛でしたが、先に貞盛が出世し、将門は父が亡くなったため無位無官のまま坂東へ帰郷することになります。この平貞盛は最後まで平将門に関係する重要人物です。

第2章 平家の内紛

第2章 平家の内紛

鎮守府将軍であった平将門の父・平良持(たいらのよしもち)が死に、一族内でも屈指の財産を相続した将門。この財産が狙われ平氏一族に内紛が起きるようになり、承平・天慶の乱に繋がっていきます。

将門と敵対する伯父・良兼

鎮守府将軍である良持の死により将門が相続した石井の営所(いわいのえいしょ)を叔父たちが奪おうと画策する事件が起きます(石井と書いて「いわい」と読みます)。

営所とは地方豪族の軍事や農業経営の拠点のことで重要な場所で、鎮守府将軍であった良持の家は一族屈指の軍事力と財産があったわけです。

しかし軍事力の要である良義が死に、この機会に石井の営所を将門の伯父である平良兼や国香が奪うために狙い攻撃します。

桓武天皇

高望王

平良持・良兼・国香(子は貞盛)・良正・良丈など

平将門

935(承平5年)2月
平将門に伯父たちが攻撃を仕掛け合戦になりますが、将門が勝利。この戦いで貞盛の父である国香が討ち取られます。この国香は貞盛の父であり、敵対は必死でした。(ちなみに源護(みなもとのまもる)の子3人も討ち取られています。)

しかし、貞盛は父の死の原因を将門ではなく伯父たちにあることを手紙で将門に伝え、貞盛は都で、将門は東国で天下に名声を馳せようと友好的であろうと伝えます。

将門の伯父である良兼は貞盛に対して、父を殺した将門と仲良くするとは兵としてあるまじきことなどと説得し、協力して将門を討つよう説得し仲間に引き入れます(伯父たちに脅されたと考えられています)。

源護と敵対するが平氏一族の内紛を治めた将門

936年(承平6年)将門は朝廷から召喚状を受ける
平国香が亡くなった戦いで、源護(みなもとのまもる)も平将門に子を殺されたと朝廷に訴えており、将門は朝廷から召喚状が届いたのでした。

この源護は良兼・国香・良正という将門の敵である伯父に娘を嫁がせています。つまり伯父たちからすれば親戚です。この3人の伯父と源護が結託し、今回の戦いでこの源護の子が将門に3人も殺されたと朝廷に訴えているのです。

朝廷に出廷した将門の弁明は認められ、処分は軽く、武勇が都に広まることになりました。

しかしその後も良兼たちは将門へ攻撃を続け、今度は将門が朝廷に訴えを出します。

その結果、良兼や貞盛に国家犯罪者への逮捕状とも言える追捕官符を出します。

その後、939年(天慶2年)に平良兼が死に、貞盛は行方を隠します。これにより将門の父・良持の死と石井の営所から始まった平氏一族の内紛が終息となりました。

追捕官符とは

時代的に外国勢力との戦いが無くなったため国軍として国の軍隊や警察機構は無くなっていました。その中で、追捕官符(ついぶかんぷ)という、朝廷からの追捕官符により、地方で起きている税金に対する一揆やいざこざをおさめることが行われていました。

  1. 地方豪族が持っている私兵が集まる
  2. 地方のいざこざを地方の私兵が鎮圧する
  3. 恩賞がもらえる

というものが追捕官符です。即席の警察・軍隊を作る仕組みで、朝廷が平将門の私兵を使い、良兼と貞盛を討つよう命じたのが追捕官符の仕組みです。

第2章 武蔵国の争い

第2章 武蔵国の争い

平将門の次の舞台は武蔵国(むさしのくに)で、武蔵国は現在の東京都府中市辺りです。

938年(承平8年)2月、武蔵国(むさしのくに)では受領が不在の状況でした。受領とは朝廷から国司に任命される現地に行って取り仕切る行政責任者、つまり県知事のようなものです。

この時、武蔵国の県知事である国司が不在でした。この国司不在時に武蔵国を取り仕切っていたのが、興世王(おきよおう)と源経基(みなもとのつねもと)です。

  1. 興世王は権守(ごんのかみ)
  2. 権守とは代理の責任者(代理の知事)
  3. 源経基は介で、権守に次ぐ地位

律令制度で朝廷が国司を任命するときに四等官というものがあり、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)がありました。

興世王・源経基と武蔵竹芝

興世王と源経基は国司が来る前に武蔵国の行政を賄賂等で我が物にしようと画策し、武蔵国足立郡という地域を取り仕切る郡司であった武蔵竹芝へ視察に入る旨を伝えます。

国司がその国(武蔵国)の各郡を視察するということは、国司によりますが接待を受けたり賄賂などを徴収することを当然とする悪代官のような者もおり、地方の政治が乱れることは多々ありました。

武蔵国の郡司である武蔵竹芝より上の役人である、権守・興世王と源経基は視察に入ることで接待が行われ賄賂が出るなど私腹を肥やせると期待していましたが、武蔵竹芝はこれを拒否。

その結果、興世王と源経基が武蔵竹芝の家に押し入り略奪行為を行いました。

この武蔵国の国司の非道を治めるため、坂東の平和を維持する意志を持つ平将門が武蔵国へ向かいます。

平将門が興世王と武蔵竹芝の間を取り持ち一旦争いは終息を迎えましたが、参加していなかった源経基が、将門・興世王・武蔵竹芝が自分を討とうとしていたと勘違い。

源経基が都へ行き、平将門が謀反を起こしたと嘘の情報を流すことで、承平天慶の乱のキッカケが作られるのです。

朝廷との対立が進む平将門

源経基の勘違いから訴えられた平将門に対し、さらに平貞盛からも将門の悪行の訴えが出ます。

これにより朝廷は将門に朝廷へ来るよう召喚官符を出します。

平将門はこの召喚を無視し、朝廷へ行きません。そして青年時代からの支援者であった藤原忠平に手紙を出し朝廷への不満を綴ります。

中央政府である朝廷側は、地方である坂東の争いを度々聞いていたため、良い印象を持っておらず少しずつ対策を考えるようになります。

逆に坂東では平将門の知名度は上がり、信頼を得ていくことになりました。

つまり、朝廷の目の届かない場所を手がかからず統治していた将門を友好的に思っていた状況が、興世王と源経基により、朝廷から将門への信頼が不信感に変わったということです。

これにより興世王は将門の味方となり、源経基は将門と敵対することになっていきます。

坂東の国司たちからは将門の謀反は嘘であることが朝廷に告げられます。これにより朝廷は将門に恩賞を与えることに評価・方針を変えようとします。

第3章 常陸国の争い

第3章 常陸国の争い

939年(天慶2年)11月、常陸国の豪族である藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門を頼り来訪します。

将門は常陸国に赴き、藤原玄明の罪を許すよう国司に要求する予定でした。

しかし、常陸国には平貞盛が隠れており、国司と共謀し平将門と戦います。

しかし、応戦した将門は勝利しますが、国府を焼き、国印と倉の鍵を奪います。これは国家反逆罪となる行為であり、将門の味方となっていた興世王は、一刻ではなく坂東8カ国を手に入れては提案します。

将門は自分が天皇の子孫であることを根拠に、国司を追い出し、坂東8ヶ国を手にいれ、都を攻略すると回答。

939年(天慶2年)12月、八幡大菩薩の使いという巫女が現れ「将門に天皇の位を授ける。その証明は菅原道真が奉る。」と告げたといいます。

  1. 八幡大菩薩は、戦の神であり、皇祖神(天皇家の祖神)の一柱されていた
  2. 菅原道真は、将門の祖父、高望王の時代で当時最大の怨霊として恐れられた
  3. これにより将門は新皇として正当化される

このようなこともあり、将門は新皇(しんのう)と名乗り、兵士の支持を得ます。そして下野国、上野国を占領。その後も勢いに乗り、坂東8ヶ国(上野・下野・常陸・武蔵・下総・上総・安房・相模)を占領します。

京で後ろ盾となってくれていた藤原忠平には、手紙で乱の経緯を説明しています。

  1. 諍いの事情を聞くため常陸国に出向いたこと
  2. 従兄弟の貞盛と国司の息子が手を組んで兵を率い挑んできたこと
  3. これに応戦し打ち負かし、一国を滅ぼしてしまったこと

常陸国は不可抗力であると言い訳を行っていますが、将門が常陸国を占領した話から京は恐怖し大混乱となります。

第4章 藤原純友の乱

第4章 藤原純友の乱

939年(天慶2年)12月26日 瀬戸内海の豪族である藤原純友の乱が起こります。
平将門が関東で朝廷に反乱を起こし、西では藤原純友が朝廷に反乱を起こしたという事態に朝廷は緊急事態となりました。

しかし朝廷は藤原純友の一部を官位を餌に味方にするなどし、反乱者の一部を将門討伐軍として、朝敵同士で潰しあう戦略を成功させます。

940年(天慶3年)正月 将門討伐のため、全国で祈祷を行い将門は悪鬼とされ、将門の人型を棘のある木に吊り下げるなどし、将門を悪者にして民意を一つにしていきます。

さらに、この時代の大多数の武士は貴族になるのが夢であったため、朝廷は将門を討伐した者は貴族にするという恩賞を提示し、将門討伐軍を編成。これに平貞盛や藤原秀郷らが集まり将門討伐軍となりました。

藤原秀郷は過去に犯罪者として追われる弓の名手。大ムカデ退治を行ったという伝説がある強者です。

これが藤原純友の乱を上手く利用し、将門討伐軍を編成した朝廷側の動きです。

第5章 将門死す

第5章 将門死す

940年(天慶3年)2月14日
現在の茨城県坂東市で合戦が行われます。
平将門軍400 VS 討伐軍3000
将門は私兵を農地に帰しており、400人しかいない状態。藤原秀郷ら討伐軍がこの状況を作ったともされています。

将門軍は奮戦しましたが、将門の眉間に弓が命中し将門は討ち取られ、承平天慶の乱は終わりを迎えます。

討ち取られた将門の首は京で晒し者にされましたが、その首は坂東の身体を求めて飛び去り、現在将門の首塚がある大手町に落ちたという伝説になったのでした。

また、将門を討ち取った藤原秀郷や平貞盛らは貴族となりました。

  1. 将門を討った秀郷には従四位下(じゅしいのげ)
  2. 貞盛・為憲には従五位下(じゅごいのげ)

そしてこの平貞盛の子孫が平清盛であるという説もあります。
また、将門を謀反人に仕立て上げた源経基も従五位下となり、源経基の子孫が源頼朝であり、ここから約250年後、武士が台頭し、源平の戦いへと歴史が繋がっていくのでした。

そして朝廷に入り込んだ武士が、貴族社会を侵食し、貴族社会を滅ぼしていくように歴史が流れていきます。

死後、平将門が最強の怨霊と言われる理由

死後、平将門が最強の怨霊と言われる理由

939年(天慶2年)、平将門が新皇を名乗り、関東八カ国を占領する
古代日本の朝廷に対しての反乱で、最大の反乱とされるのが平将門の乱です。

平将門は鋼鉄の肉体、七人の影武者、晒し首にされた後に都を目指して首が飛んで行ったとされる伝説があり、最強の怨霊と言われています。また守り神としても祀られており、その平将門の首塚が現在の東京・大手町にあります。

次の二点が最強の怨霊と言われる所以です。
関東大震災後、平将門の首塚の場所に大蔵省を建てようとした大臣を始めとした関係者が死亡
第二次世界大戦後、GHQが平将門の首塚の場所に駐車場を造ろうとしたらブルドーザーが横転し作業員が死亡

徳川家康が武士の先駆けとして祀る
そして江戸の守り神として普及
そこから守り神になっていく

ちなみに将門の胴塚は、茨城県坂東市の延命院にあります。戦の後家臣が埋葬し、カヤの木を埋めて将門を弔ったと言われています。

その他

その他

  • 茨城県坂東市にある国王神社に平将門像がある
  • この平将門像は、平将門の娘によって彫られたとされる

平将門がわかる資料:将門記

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