織田信長ゆかりの地である「京都の建勲神社」は刀剣が有名
建勲神社は、織田信長を祀る神社で、明治天皇が織田信長の偉建をたたえて創建した神社です。
そのため境内には織田信長が好んだことで有名な「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」という『敦盛』の一節が書かれた石や、信長の愛刀であるへし切り長谷部や義元左文字などがあります。
- 建勲神社は船岡山の上にある
- 船岡山と言っても山レベルで階段を登らなくても本殿に到着できる
- 船岡山の周辺は住宅街になっている
- 建勲神社の読み方は、正式名称が「たけいさおじんじゃ」
- 通称としては、「けんくんじんじゃ」や「けんくんさん」と呼ばれている
境内から大文字山と比叡山が見える
建勲神社は階段を上った先で、左側に比叡山があり、右側に大文字山(如意ヶ嶽)を見ることができる場所になっています。
敦盛とは
ちなみに敦盛とは、平家の平敦盛のこと。熊谷直実と一騎打ちし戦死。のちに「幸若舞(こうわかまい)」の演目の一つになりました。
この部分は、源氏方の熊谷直実が平敦盛と一騎打ちをし勝利するが、敦盛の幼さに苦悩し出家し、その後、世を儚むシーンの一節です。
人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなりその意味は、
人間界での50年は、天上界に比べれば、夢幻のごとく儚いという事です。
- 京都の金戒光明寺は熊谷直実ゆかりの地で、熊谷堂などがある
- 敦盛は織田信長が今川義元と戦う桶狭間の戦いの出陣前に舞ったと言われている
- 京都三条駅・京都市役所前駅付近の寺町(商店街の端)には本能寺がある
織田信長とは
織田信長の人生を10代〜40代でまとめました。
織田信長10代
織田信長は尾張の大うつけと言われていた少年時代に斎藤道三の娘と結婚します。この結婚は信長の父が敵対する斎藤道三と同盟を結ぶために設けた政略結婚です。
斎藤道三は娘の帰蝶(きちょう)に本当にうつけだったら殺せと命令したとのこと。
- 初陣(吉良・大浜の戦い)
- 信長が15歳で濃姫と結婚((濃姫は帰蝶といい、斎藤道三の娘)
織田信長20代
病で父が死に織田家を継いだ信長。信長と弟・信行は仲が悪く弟が信長を暗殺しようとするも二度失敗。一度目は許され、二度目は許されず死去。
その後兵力差が10倍以上ある今川義元が京都を目指して進軍し、戦うことになりますが、これを撃破し勢いに乗ります。
- 稲生の戦い(弟・織田信行と戦い勝利する)
- 桶狭間の戦い(今川義元に勝利し、義元左文字を入手する)
織田信長30代
信長の30代は稲葉山城の戦いに勝利し美濃で地盤を固め、強敵だった浅井・朝倉にも打ち勝ちます。
またタブーとされた宗教勢力への攻撃・焼き討ちで宗教勢力を排除。足利義昭を将軍にし実質的な権力を信長が握り、武将・宗教・将軍と多くの敵を排除しています。
- 斎藤氏から稲葉山城を奪う(稲葉山城の戦い)
- 浅井長政とお市を結婚させ浅井と同盟を結ぶ
- 浅井・朝倉と戦う(金ヶ崎の戦い・姉川の戦い)
- 顕如と戦う(石山合戦開始)
- 足利義昭を室町幕府第15代将軍にし、実権は信長が握る
- 比叡山焼き討ち
織田信長40代
40代の信長は武田・上杉・毛利など有力な戦国大名と戦っていきます。天下人に最も近い状態となりますが、本能寺で家臣の明智光秀に襲われ自害し生涯を終えます。
- 朝倉氏を滅ぼす(一乗谷城の戦い)
- 伊勢長島一揆を皆殺しで終結
- 武田騎馬隊を鉄砲で撃破(長篠の戦い)
- 安土城を築く(琵琶湖東岸で着工開始)
- 上杉謙信に柴田勝家が敗北(手取川の戦い)
- 毛利水軍に勝利(木津川口の戦い)
- 荒木村重を倒す(有岡城の戦い)
- 京都で馬揃えを行う(天下人だと知らしめる)
- 武田勝頼に勝利(天目山の戦い)
- 明智光秀に裏切られ本能寺で自害(本能寺の変)
本能寺の変後、織田家はどうなったのか
本能寺の変後、織田家はどうなったのかというと、子によって存続します。信長と濃姫の間には子がいませんでしたが、信長と複数の側室との間には複数子がいました。
その中でメインとなる3人の子がおり、それぞれ下記のようになります。
- 織田信忠(おだのぶただ)→ 長男。信長の跡を継ぎ織田家を相続。本能寺の変で自害
- 織田信雄(おだのぶかつ)→ 次男。信雄は三男・信孝と対立、勝利し織田家を相続。江戸幕府の頃は大名として存続
- 織田信孝(おだのぶたか)→ 三男。兄・信雄と対立し自害
このように続き、時代は流れ建勲神社は明治天皇により創建が決定されます。そして信長の子孫で東京と山形県に造営されます。その後東京の神体を京都の建勲神社に移し現在に至っています。
- 東京→ 天童藩知事・織田信敏の邸内
- 山形→ 天童市(織田家旧領地)
- 京都→ 東京にあった神体を移したのが京都の建勲神社
建勲神社の御朱印
建勲神社の御朱印は、天下布武の文字があるなど、織田信長に関するものになっています。また、へし切長谷部や義元左文字という刀の御朱印もあり、他の神社とは違う印象を受ける御朱印になっています。
へし切長谷部とは
へし切長谷部(へしきりはせべ)とは、織田信長が使用していた刀のことです。織田信長が、観内という茶坊主を成敗した逸話が由来となっています。観内が逃げて台所の膳棚の下に隠れましたが、観内をその棚ごと刀身を押し当て切ったということで、圧し切り(へし切)の異名が継いたといわれています。
- へし切長谷部の「長谷部」は長谷部国重という刀鍛冶のこと
- 長谷部国重は正宗十哲(まさむね じってつ)の一人
- 正宗十哲とは、刀工・正宗の10人の高弟のこと
刀剣「へし切長谷部」は、その後、「信長 → 秀吉 → 黒田長政」に下賜されたことにより、御朱印にも「信長公所持」・「黒田下賜刀」と書かれています。
義元左文字とは
へし切長谷部の他に、義元左文字(宗三左文字)というものもあります。ちなみに正宗十哲には、左文字もおり、建勲神社と関わりがあります。
- 左文字は、左文字 源慶(さもんじ げんけい)のことで左文字派を代表する刀工
- 筑前国(福岡県)の刀工
- 建勲神社蔵で重要文化財の義元左文字(宗三左文字)がある
- この刀は桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元から手に入れたもの
へし切長谷部や義元左文字の他、薬研藤四郎という織田信長の短刀の再現刀が奉納されるなど、織田信長の刀という印象が強いのが建勲神社の特徴でしょう。
織田信長公三十六功臣
永禄11(1568)年、織田信長が上洛を果たした際に、朝廷より官位を勧めれました。その際に功臣の賞を第一に願い出たとのこと。
建勲神社では神社創建の際に、功臣36名を選び拝殿に掲げているとのこと。
この36人は、有名な合戦に多々参加している人物達です。
- 池田 信輝 (母が信長の乳母となり、信輝は信長の乳兄弟だった)
- 稲葉 一鉄 (斎藤龍興を見限り信長の家臣となった美濃三人衆の一人)
- 猪子 兵助 (犬山城が落城し織田信長の家臣となり、信長の側近として活躍)
- 氏家 卜全 (美濃三人衆の一人。伊勢長島攻めで一揆軍により討死)
- 織田 信業 (信長の従兄弟、父は小豆坂の七本槍、兄は信長と敵対)
- 織田 信光 (信長の父・信秀の弟。小豆坂の七本槍の一人。信秀の死後信長の後ろ盾となった)
- 蒲生 教秀 (人質から信長の娘と結婚し、出世頭となり、秀吉政権でも重鎮となった)
- 河尻 重能 (信長の父・信秀に仕え、小豆坂合戦では16歳で敵将を討ち取った)
- 木下 秀吉 (農民から出世し、本能寺の変後、明智光秀を倒し、天下統一を果たした)
- 斎藤 新五 (斎藤道三の子で、斎藤義龍の腹違いの弟、本能寺の変で二条城にて討死)
- 坂井 久蔵 (六角氏との戦いで13歳で敵の首を挙げ、信長を感銘させ、足利義昭から感状を下された)
- 坂井 政尚 (坂井久蔵の親で、“一人当千の働き、高名比類なきところ”と言われた)
- 佐久間 信盛(信長の古くからの重臣だったが晩年は高野山に追放され病死)
- 佐久間 盛政(武勇に優れた武将で、尾山城城主。柴田勝家の妹が母)
- 佐々 成政 (府中三人衆の一人。本能寺の変後、秀吉と対立・和睦、最終的に切腹)
- 柴田 勝家 (信長に対して一度謀反を起こすが、許され、その後織田軍主力の武将となった)
- 菅谷 長頼 (信長の子・信忠の付人衆の一人で、織田奉行五人衆の一人でもあった)
- 滝川 一益 (徳川家康との同盟締結交渉を務めた人物)
- 武井 夕庵 (信長の側近の一人。右筆兼奉行の一員で京都周辺の政治を行った)
- 道家 尾張守(信長から「天下一の勇士なり」としたためた旗をもらったが、討死)
- 長岡藤孝 (第12代将軍足利義晴の子で、信長・秀吉・家康の時代で活躍)
- 丹羽 長秀 (信長の養女と結婚。秀吉政権でも越前1国、加賀2郡を与えられ信頼された)
- 原田 備中守(信長の側近で、赤母衣衆の一人。朝廷から「原田」の姓を賜った)
- 平手 汎秀 (武田信玄に破れ、猛将・平手汎秀の首は岐阜城の信長に送られた)
- 平手 政秀 (濃姫と信長の婚姻を実現させた信長の教育係。信長をいさめて自害)
- 福富 貞次 (鎌倉時代の梶原景時の家臣だった福富万蔵国秀の一族)
- 不破 河内守(斎藤道三→義龍→龍興→信長の家臣となり、浅井長政とお市の婚姻などでも活躍)
- 堀 秀政 (13歳で信長に仕えた側近の一人。本能寺の変時の秀吉への使者)
- 前田 利家 (14歳で信長に仕えた出世頭で、秀吉政権でも重鎮となった)
- 村井 貞勝 (信長上洛以降、京都所司代となり、京都の行政務を担当した)
- 毛利 秀高 (桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った人物)
- 森 長定 (森蘭丸のこと。頭脳明晰。13歳で信長の小姓となり18歳で本能寺の変で死去
- 森 可成 (金山城主で、森蘭丸の父。京都の政務も担当。浅井・朝倉軍との戦いで戦死。)
- 簗田 出羽守(桶狭間の戦いにより沓掛城を与えられた。長島一揆征伐で別喜右近の官位も賜った)
- 山内 一豊 (信長→秀吉→家康の時代を生き抜き土佐20万石となった。妻・千代の内助の功が有名
- 湯浅 甚助 (信長の小姓。本能寺の変で討死)
建勲神社へのアクセス
- 住所 : 京都市北区紫野北舟岡町49
- TEL : 075-451-0170
建勲神社は船岡山にあり、船岡山自体が広いので行き方もいくつもあります。周辺にはやや歩きますが、大徳寺があります。建勲神社前というバス停がありますが、そこからやや歩く印象になるかもしれません。
近くに電車の最寄り駅がないので、基本的にはバスやタクシーを使うことになるでしょう。電車の最寄り駅は遠いですが、鞍馬口駅になります。
織田信長といえば本能寺ということで、建勲神社と同じ京都にある本能寺も解説しています。参考にどうぞ。