厭離庵は紅葉が美しい特別公開の観光スポット
まず、厭離庵の読み方は「えんりあん」です。
厭離庵の歴史
厭離庵は鎌倉時代の公卿・歌人の藤原定家の山荘「小倉山山荘」の跡地と伝えられています。
創建年は不明。山号、如意山。宗旨、臨済宗。宗派、臨済宗天龍寺派。御本尊、如意輪観世音像。
厭離庵では、藤原定家が小倉百人一首を撰したと伝えられていますが、その後荒廃し江戸時代初期には定家・為家塚が残るのみとなっていましたが、江戸時代中期の安永年間に定家の子孫である冷泉家が土台石を元に修復し、霊元法皇に厭離庵の号を贈られ、白隠禅師の弟子の霊源慧桃禅師により開山されました。
当初は、真言宗大覚寺派に属しましたが、安永元年(1772年)に、鹿王院の末庵となり臨済宗天龍寺派になったとされています。
その後再び荒廃しましたが、明治43年(1910年)に実業家木村彦太郎によって佛堂と庫裡が建立され、山岡鉄舟の娘素心尼が住職となり尼寺になりました。
昭和50年(1950年)に台風により本堂が倒壊しました。現在では、毎年紅葉シーズンにだけ一般公開される紅葉の名所として人気のスポットになっています。
厭離庵関連人物
藤原定家(1162-1241)は鎌倉時代の公卿で歌人で、父は歌人、藤原俊成、母は藤原親忠の娘です。1183年、父の藤原俊成が後白河上皇の命により編纂した「千載和歌集」を厭離庵で撰したとされています。その後、1201年より、和歌所の寄人に選ばれ、「新古今和歌集」の編さんも行なったとされています。
そのほかにも「新勅撰和歌集」の編さん、漢文日記「明月記」を書き、歌道の師とされています。
藤原為家(1198-1275)は藤原定家の子です。1256年に出家した後、後嵯峨院歌壇の歌人として活躍しました。 墓が厭離庵にあります。
見どころ
厭離庵は通常は非公開の寺院です。一般公開されるのは紅葉が見頃の時期になる11月上旬から12月上旬のみです。入り口はとても簡素で看板もないため、知らないと素通りしてしまうようなところですが、中に入れば庭では空を覆いつくすほどの赤い紅葉がとても見事で、まるで別世界のように美しい景観を楽しむことができます。
大人数の観光客は訪れない隠れた紅葉のスポットなので、ゆっくりと美しい景観を楽しみたい人におすすめです。
木で色付いた楓も綺麗ですが、厭離庵では、散り紅葉が特に見事です。紅葉のピークの時期よりも散った後の時期の方が観光客も増えるそうです。
山門をくぐると茅葺の待合があります。そこを通って本堂へ向かいます。本堂は、昭和50年(1950年)の台風で倒壊したため、現在の本堂は、昭和28年(1953年)に再建されたものです。
本堂には、如意輪観音像や、厭離庵を開山した霊源禅師、藤原定家、藤原為家、冷泉為相、西行法師、紀貫之の位牌が安置されています。
藤原定家の山荘を茶室として再興した時雨亭も見どころです。
御朱印は特別公開の時期のみいただけます。御朱印には「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ」という藤原定家の詠んだ歌が書かれています。
基本料金、開閉時間
拝観料は500円です。山門前が受付になっているので、そこで拝観料を納めてから入ります。
開館時間は11月上旬から12月上旬の9時〜16時で、見学所要時間は15分程度です。見学できるのは庭園、茶室、本堂のみで、建物内の見学はできません。
アクセス
住所:右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2
電話番号:075-861-2508
交通案内:京都市営バス 嵯峨釈迦堂前下車 徒歩約10分
周辺見どころ
厭離庵周辺には人気の観光スポットが多くあります。
散策ルートとしては、厭離庵から柿落舎、野宮神社を経由し、竹林の道を通って天龍寺まで行くのがおすすめです。時間がある場合には、清凉寺、二尊院、祇園寺などを巡るのも良いでしょう。