無鄰菴の紅葉ライトアップと山縣有朋を解説

無鄰菴は紅葉の時期には特別公開され、夜間にライトアップされた庭を楽しめます。このページでは紅葉夜間ライトアップの写真とともに、前半を無鄰菴、後半を無鄰菴の所有者だった山縣有朋について解説していきます。観光してみたい人は参考にしてください。

  • 無鄰菴は、山縣有朋が7代目小川治兵衛に作庭を依頼した別邸
  • 敷地は3200平方メートルほど

無鄰菴とは

無鄰菴-夜3

無鄰菴は母屋の一階・二階・庭園・洋館を見ることができる造りになっています「無鄰菴」と名付けられた山縣有朋の別邸は3つあります。無鄰菴という名前は、近隣に家がなく静かな場所だということに由来しています。

  • 最初に作られた無鄰菴は、山縣有朋の出身地である山口県(現在は無い)
  • 2つめは京都市内中京区に作られ(所有者が変わり改修)
  • 最後に作られたのが南禅寺の無鄰菴(当ページで紹介)

無鄰菴の夜間ライトアップ

紅葉の時期などに夜間ライトアップが行われます。母屋で解説を聴けるほか、二階でライトアップされた庭を眺めることもできます。また、庭を歩くこともでき、庭園内にある洋館に入ることもできます。洋館には山縣有朋関連の品々があり、歴史を感じることができる雰囲気になっています。

南禅寺の無鄰菴は7代目小川治兵衛

無鄰菴-夜4

南禅寺の無鄰菴は明治28年(1895年)に作られました。庭園は池泉回遊式です。池泉回遊式の庭園は他にもありますが、ここの庭園の特徴は敷地が三角形であること。しかし、故意に三角形にしたわけではなく、隣接している道路などの関係で、このような形にしか作れなかったとか。また特徴は川が浅く作られているとのこと。これは、無鄰菴を作庭した7代目小川治兵衛の庭の特徴とも言われています。

  • 木の高さを調節したり、石を使った遠近法で、敷地が三角形に見えないように工夫されて作られている
  • 母屋の座敷から庭園を眺めても三角形であるとは思えない造り

山県有朋の庭を明るい雰囲気の簡素なものに仕上げるという設計に沿って、流れ、芝生、草花や低木の刈り込みなどを用いて、山間の渓流のような雰囲気を作り出しています。

当時、日露戦争の会議が行われていた

無鄰菴の庭園の入り口には明治31年(1898年)に建てられた洋館があります。この2階には狩野派の障壁画で飾られた部屋があり、ここは明治36年(1903年)無鄰菴会議と言われる会議が行われた場所です。伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎などの要人が集まり、日露戦争の開戦を決定した歴史的な場所です。

  • 無鄰菴は昭和16年(1941年)に京都市に寄贈された
  • 昭和26年(1951年)6月には、国の名勝に指定された
  • 現在は京都市が管理し、公開している

山縣有朋

無鄰菴-夜2

山県有朋とは、元は長州藩の武士で、明治政府では、陸軍の基礎を築いて「日本陸軍の父」とも呼ばれていました。政界への影響も大きく、第3代、第9代の内閣総理大臣でもあります。

山縣有朋誕生から松下村塾へ入塾

低い身分の出身ですが、尊王攘夷の思想に影響を受け、松下村塾に入門しました。入門していたのは短期間でしたが、吉田松陰に強い影響を受け生涯師として、敬っていました。

  • 山県有朋は、天保9年(1838年)6月14日に生まれた
  • 長州藩の蔵元中間、山縣三郎有稔の息子
  • 蔵元中間というのは足軽よりも軽い身分

山縣有朋の奇兵隊軍監時代

文久3年(1863年)には、上海に渡航した高杉晋作に代わって奇兵隊軍監になり、慶応元年(1865年)には絵堂の戦いで正義派に奇兵隊軍艦として参戦し、勝利に貢献しました。

  • 大田・絵堂の戦いとは、長州藩の俗論派と正義派が激突した戦い

山縣有朋の戊辰戦争から日本陸軍時代

明治元年(1868年)戊辰戦争では、奇兵隊を率いて北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として戦いました。そして、明治6年(1873年)には陸軍卿となり、軍人勅諭の制定にも深く関わっていました。そのため山県有朋が日本陸軍の実質的な建設者であるとも言われています。

山縣有朋の内閣総理大臣時代

明治22年(1889年)に長州藩出身の陸軍軍人としては初めて内閣総理大臣に就任し、超然主義をとり軍備拡張を進めて行きました。

  • 日清戦争では、第一軍司令官として戦地に赴き指揮をとった
  • 帰国後明治31年(1898年)には第2次山縣内閣を発足
  • 参謀総長、枢密し、院議長なども務めた
  • 大正11年(1922年)2月1日に83才で死去

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