三十三間堂の歴史と見どころ、仏像(主に二十八部衆)を種類別でわかりやすく解説
このページでは京都にある三十三間堂の歴史を人物と関連する乱(合戦)の流れで簡単にわかるように解説してみました。
また、後半は三十三間堂の仏像を関わりなどで簡単に理解できるようにまとめています。簡単にでも歴史や仏像の関連がわかると京都観光の際に楽しめると思うので参考にしてください。
三十三間堂とは
三十三間堂は後白河法皇の勅願で平清盛が私財で建てたお寺です。特徴としては三十三間の長いお堂と、千手観音像や二十八部衆などの仏像です。
阿弥陀ヶ峰と鴨川に挟まれる一にあります。阿弥陀ヶ峰は東山三十六峰の一つで、36の山の連なりのことで12kmほどあります。
1. 三十三間堂の歴史
歴史1. 後白河上皇と平清盛
歴史1. 後白河上皇と平清盛
三十三間堂は俗称であり、正式には蓮華王院と言われます。この蓮華王院を建てるように命じたのが後白河上皇で、命じられたのが平清盛です。
平清盛、後白河上皇を軸に三十三間堂の歴史をみていきましょう。
保元の乱
保元の乱は兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇の戦いです。 弟が天皇になった事で、院政ができなくなり、対立した天皇家の争いです。
そこに貴族である藤原頼長と藤原忠通の家督争いも含まれます。
さらにこの争いに武士の武力を使う事で勝利しようとした天皇と貴族たち。結果として武士の平清盛の活躍により、後白河天皇が崇徳上皇に勝利しました。後白河天皇は時を経て後白河上皇になります。
- 勝者:後白河天皇(弟)・貴族(藤原忠通)・武士(平清盛・源義朝)
- 敗者:崇徳上皇 (兄)・貴族(藤原頼長)・武士(源為義・源為朝・平忠正)
ちなみに源義朝は頼朝や義経の父で、この頃は平家の平清盛と共に戦っていました。
平治の乱
平治の乱では後白河上皇が二条天皇と対立します。この平治の乱では平清盛が二条天皇側に加勢し、保元の乱では見方だった後白河上皇と平清盛は対立します。
結果として二条天皇・平清盛が勝利し、清盛は太政大臣となり平氏が全盛期を迎えます。
- 勝者:二条天皇 ・武士(平清盛)・貴族(藤原通憲)
- 敗者:後白河上皇・武士(源義朝)・貴族(藤原信頼)
後白河上皇は戦いに敗れ、実力者である平清盛と溝ができますが、平治の乱から1年後、後白河上皇と平慈子の間に子が生まれた事で再び後白河上皇と平清盛の関係が近くなります。
慈子は清盛の妻と姉妹で後白河上皇の寵愛を受けており、子ができたわけです。
なので、平家から天皇になるものが出たという事は、武家・貴族の最高位にあった平清盛には、天皇の権力に手が届く魅力があったわけです。
これにより、政治的・権力・野望などが入り混じり、再び後白河上皇と平清盛が結びつきが強まりました。
これらの歴史の流れで勝ち抜き出世した平清盛が、蓮華王院を後白河上皇の御所に作たのが三十三間堂の始まりです。
歴史2. 嵯峨上皇により再建、足利義教により修復される
歴史2. 嵯峨上皇により再建、足利義教により修復される
その後焼失し嵯峨上皇によって再建されました。その後も室町時代の6代将軍である足利義教により修復されていきます。
足利義教は金閣寺を建てた足利義満の子です。そして銀閣寺を建てた足利義政の父です。このような事がわかると観光の際にも京都の繋がりを感じられるでしょう。
歴史3. 豊臣秀吉と豊臣秀頼
歴史3. 豊臣秀吉と豊臣秀頼
豊臣秀吉の時代、この地は交通の要所であった事や後白河院や平清盛の栄華にあやかるため、豊臣秀吉が 三十三間堂の北部に大仏殿方広寺を造営します。
このことから南大門・太閤屏が残っていたり、三十三間堂周辺には豊臣秀吉ゆかりの豊国神社などが徒歩で行ける距離にあります。
秀吉は死後、豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神格として祀られています。また、三十三間堂の修理は秀吉の子である豊臣秀頼の代まで続きました。
大坂冬の陣が起こるきっかけとなった鐘銘事件(しょうめいじけん)の鐘がある方広寺は豊国神社の隣にあり、方広寺も三十三間堂の徒歩圏内(5〜10分程度)にあります。
三十三間堂の隣にある養源院などは豊臣秀吉の側室で、浅井長政の長女である茶々(淀殿)が秀吉にお願いして建てたお寺であるなど、三十三間堂一帯は豊臣家と関わりの深い歴史が随所に見える場所になっています。
三十三間堂の歴史まとめ
三十三間堂の歴史まとめ
後白河上皇・平清盛 → 嵯峨上皇 → 足利義教 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼
このように三十三間堂は後白河上皇から始まり、時代を経て豊臣秀頼の代まで修復が行われ、その後も修復などを経て現在に至っていることがわかります。
1. 三十三間堂の見どころ
三十三間堂の見どころ
見所1. 通し矢と矢数帳
三十三間堂は通し矢で有名で、お堂西縁南端から120mの距離を矢を射りその矢数の的中率を競うもので、百射(ひゃくい)・千射などがあり、かなりの数の矢を射るものと言われています。
矢数帳はこの矢法の伝承や記録が残っており、最高記録は和佐大八郎が13,053本・通し矢8,133本と記録されています。現在でも三十三間堂の建物に矢が突き刺さっている箇所もあるので探してみると楽しめるかもしれません。
三十三間堂の仏像
三十三間堂の仏像について解説しています。その前に仏像の基礎知識についても説明していきます。
仏像の4分類(基礎知識)
1. 三十三間堂の仏像と4つの分類
三十三間堂の仏像をより楽しめるように簡単に仏像の知識を解説していきます。三十三間堂の仏像は撮影禁止なので文章だけで解説していきますが、簡単かつわかりやすくポイントをまとめましたので読んでみてください。
仏像の4分類
仏像には大きく四つの分類があります。如来・菩薩・明王・天部の分類で、これを覚えておくだけでも仏像の見方が変わります。
- 如来とは、悟りを得た存在であり仏像の最上位に位置付けられる存在です。大日如来、薬師如来、釈迦如来など。
- 菩薩とは、悟りを得るために修行をし、人々を苦しみから作り続ける存在です。弥勒菩薩や地蔵菩薩、千手観音菩薩、日光・月光菩薩など。
- 明王とは、仏教の教えに従い悪を討つ存在です。不動明王や愛染明王など。
- 天部とは、仏教界の守護神で、敵から守る存在です。帝釈天や四天王(広目天・持国天・増長天・多聞天)、八部衆など。
このような分類の中で、それぞれ特徴があります。例えば如来グループの中の薬師如来は病気の治癒などの特徴があり、持ち物などがそれを表していたりするなどの特徴です。
釈迦如来は装飾品をつけず、粗末な衣装で像が表現されているなど、如来の他、各グループの仏像にある装飾品や持ち物、武器、指の形など、多くの特徴とその意味を知って仏像を見ていくと、また違った京都観光ができるようになるでしょう。
千手観音坐像と千手観音立像
千手観音坐像と千手観音立像
三十三間堂内の中央の巨像(中尊)を中心に、左右に各500体(重文)、合計1001体の千手観音像があり、これが三十三間堂のご本尊です。
千手観音坐像は湛慶(たんけい)の作品で、三十三間堂の中央に配置されている334.8cmの大きな仏像です。檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手が特徴です。
- 千手観音は略称
- 正式には十一面千手千眼観自在菩薩(じゅういちめんせんじゅせんげんかんじざいぼさつ)という
- 千手観音坐像は菩薩の位置付けで、悟りを得るために修行中の身であり、人々を救う存在
千手観音の千手とは
千手観音像は40本以外に2つの手があり、この2つの手で合掌をしていたり、何かを持っています。千手観音像は全国にいくつもありますが、千本手があるものは稀です。
- 42本の手を持つ千手観音像が多くある
- その理由は一本の手で25の世界を救うという事になっているから
- 40本の手×25世界=1000という事で、千手観音菩薩となっている
湛慶とは
三十三間堂の千手観音坐像は湛慶(たんけい)82歳の時の作品です。湛慶は運慶の長男で、千手観音坐像は鎌倉期(建長6年)に作られています。
京都では六波羅蜜寺が湛慶やその父・運慶など慶派にゆかりの深いお寺で、仏像も観れるので興味のある人は観光してみるのも良いかもしれません。
八部衆
八部衆
三十三間堂には二十八部衆の仏像がありますが、その前に八部衆についても解説しておきます。
八部衆は8つの種族という意味で、仏教を守護する元鬼神たちです。元鬼神というのは、仏教と敵対していた古代インドの鬼神ということ。しかし釈迦如来の教えを受け眷属(けんぞく)となり八部衆となったということです。
眷属とは従者のことであり、仏教を守る守護神になったということで、その守護神たちが仏像として日本に伝わり三十三間堂に置かれているということです。
八部衆は次の8種族をいいます。
- 天(てん)天部(梵天・帝釈天などの神々)のこと
- 龍(りゅう)龍と呼ばれる神々
- 夜叉(やしゃ)古代インドの鬼神
- 乾闥婆(けんだつば)蘇摩酒(そましゅ)の守護神
- 阿羅(あしゅら)戦闘神、帝釈天と戦い、釈迦に教化された
- 迦楼羅(かるら)火を吐き龍を食べる鳥類の王
- 緊那羅(きんなら)半身半獣、音楽や歌舞の神
- 摩睺羅迦(まごらか)蛇の神格化、音楽の神
この八部衆に分類される神々が三十三間堂の二十八部衆に登場しています。なので八部衆を踏まえた上で、二十八部衆を知るとわかりやすいでしょう。
二十八部衆
二十八部衆は千手観音の眷属とされ、三十三間堂でも千手観音の前に二十八部衆と風神・雷神像が置かれています。
千手観音の部隊長という位置づけなのが二十八部衆であり、それぞれが500の眷属を従えています。
それでは二十八部衆の仏像をそれぞれ解説していきます。
三十三間堂の二十八部衆をわかりやすく総解説
仏像まえがき
観音像の前列と中尊の四方に28体の仏像(国宝)があります。これは千手観音とその信者をまもる神々です。インド起源のものが多いためインド神話の知識があるとより仏像を楽しめます。
仏像制作の技法的は下記のような特徴があります。
- 檜材の「寄木造り」、仏像の手や顔を別々に作り接着
- 漆を塗って彩色仕上げる
- 目は水晶をはめ込む「玉眼」という技法を使用
また、二十八部衆の他、風神・雷神像は二十八部衆ではありませんが、三十三間堂の仏像として別枠で載せています。
下記に三十三間堂に配置されている二十八部衆の名前を載せています。名前を押すと簡単な解説が見れますので、三十三間堂の仏像について知りたい人は名前を押して見てください。
那羅延堅固
那羅延堅固
那羅延堅固(ならえんけんご)は密迹金剛とセットで金剛力士、仁王として京都でも多くのお寺に配置されています。仁王門に立っている一体が那羅延堅固です。
那羅延堅固は那羅延天(ならえんてん)とも言い、バラモン教・ヒンドゥー教のヴィシュヌが元になっています。
- 那羅延堅固(ならえんけんご)と密迹金剛(みっしゃこんごう)は金剛力士像の事
- 仁王像とも言われ、阿吽を表現している像
- 三十三間堂では那羅延堅固が阿形、密迹金剛が吽形となっている
京都では清凉寺や太秦広隆寺、仁和寺などに仁王門があるので、三十三間堂の那羅延堅固と密迹金剛と比べてみると面白いと思います。
大弁功徳天
大弁功徳天(だいべんくどくてん)は吉祥天のことで、ヒンドゥー教のラクシュミーが仏教に入り変化したものと考えられています。ラクシュミーはヴィシュヌの妃です。
吉祥天は美女の代名詞として有名で、吉祥の意味は繁栄・幸福。天とつくだけあって天部に属します。弁財天とも混同され弁財天とされることあります。
されに功徳天とも言われ、功徳天は父が徳叉迦神、母が鬼子母神、夫が毘沙門天となっています。
緊那羅王
緊那羅王(きんならおう)の緊那羅(きんなら)は音楽の神々(または精霊)で8部衆の一つです。元々は半身半獣で馬の頭をしていたり、翼を持った鳥人のような姿をしているなどの特徴がありました。歌や舞で帝釈天に仕えるとされていわれる帝釈天の部下でもあります。
金色孔雀王
金色孔雀王(こんじきくじゃくおう)は、孔雀明王が騎乗する孔雀。これを尊格化したものとされています。孔雀明王を本尊とした密教呪法を孔雀経法と言い、孔雀経法は鎮護国家の大法とされ最重要視されていました。
孔雀は毒蛇や害虫を食べることから、人間の煩悩の三毒(貪り・嗔り・痴行)も喰らうと変化し、仏教で功徳がある仏へと繋がっていったようです。金色孔雀王ではなく孔雀明王は、菩薩のような姿で表されている特徴があります。
大梵天王
大梵天
大梵天王(だいぼんてんおう)。
大梵天は、インドのブラフマーのことです。
創造神ブラフマーはヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーと言われており、このブラフマーが三十三間堂では大梵天となっています。
- ブラフマーはブラフマンを神格化したもの
- ブラフマンはインドの哲学で「宇宙の最高原理」をという意味
- ブラフマンは日本では「梵(ぼん)」と訳される
大梵天と一対となっているのが帝釈天で、大梵天と帝釈天を合わせて梵釈と言われることもあります。
この辺りはバラモン教やヒンドゥー教などから仏教に取り入れられた要素が強いとされ、仏教の開祖である釈迦が悟りを開いた後に悟りを広めるように勧めたのが梵天と帝釈天だったという伝説もあります。
乾闥婆王
乾闥婆王(けんだつばおう)は蘇摩酒(そましゅ)の守護神。梵名はガンダルヴァ。蘇摩酒(ソーマ酒)は古代インドの酒の一種で寿命を延ばしたり、不老不死の効果があるとも言われている酒のこと。
- 蘇摩いう植物を石で圧して液を取る
- 牛乳などを混入して発酵させる
乾闥婆王は帝釈天眷属の神医で楽神。そのため仏像は楽器を持っています。香を食べ蜃気楼をつくり出すとも言われています。
吉祥天とも言い、毘沙門天の妻ですが、仏像に女性っぽさは皆無。
満善車王
満善車王(まんぜんしゃおう)は、古代インドの鬼神。
沙羯羅竜王
沙羯羅竜王(しゃがらりゅうおう)は龍族の王で、八大竜王のうちの1神。海にすみ、水を支配すると言われています。八大龍王は次の通り。
- 難陀(なんだ)龍王
- 跋難陀(ばつなんだ)龍王
- 沙伽羅(しゃがら)龍王
- 和修吉(わしゅきつ)龍王
- 徳叉迦(とくしゃか)龍王
- 阿那婆達多(あなばだった)龍王
- 摩那斯(まなし)龍王
- 優鉢羅(うはつら)龍王
このうち、難陀(なんだ)龍王も三十三間堂の二十八部衆の仏像の中にあります。
金大王
金大王(こんだいおう)は毘沙門天の眷属です。
金毘羅王
金毘羅王(こんぴらおう)と読みます。
三十三間堂の仏像の中に金毘羅王(こんぴらおう)の像がありますが、これは同じ京都にある安井金比羅宮の金比羅と同じ字。金比羅とは元は魚神・海神で、クンビーラという言葉からきています。
- クンビーラは鰐(わに)の意味と言われている
- ガンジス川に住むワニが元になっているとも言われる
- クンビーラが日本に伝わる際に、クビラ・クンビーラ・コトヒラ・コンピラなどに変形している説がある
インドから仏教が伝わり日本に到達しているため、クンビーラなど音が変形して金毘羅になっているなどを知っていると、語源からその姿の意味が感じられ、その仏像がわかりやすくなります。
五部浄
五部浄(ごぶじょう)は天上界の神。
神母天皇
神母天皇(じんもてんおう)は、鬼子母神(きしもじん)のことです。毘沙門天の部下である八大夜叉大将の妻。
500(千・1万とも言われる)の子を持つ母で、子育ての栄養をつけるために人間の子を捕え食べていたとされる。
- 釈迦により鬼子母神の末っ子のピンガラを隠される
- 鬼子母神は半狂乱となって世界中を7日間子を探し続けるが見つからない
- 釈迦が一人の子を失う親の痛みについて鬼子母神を諭し、鬼子母神は仏法の守護神となった
その後鬼子母神は子供と安産、盗難避けなどの守り神とされています。これが三十三間堂の二十八部衆像である神母天皇です。
東方天
東方天(とうほうてん)は、帝釈天の部下で四天王の持国天のこと。別名を提頭頼吒(だいずらた)とも言います。
須弥山(しゅみせん)の東中腹におり、東方の世界を守護する神なので東方天と名がついています。持国天を表す仏像は剣を持っていることがることが多くあります。
毘楼勒叉
毘楼勒叉(びるろくしゃ)は、須弥山の南方に住む四天王の増長天のことです。
増長天は増長、すなわち大きく成長するなどの意味から作物を実らせることへと繋がり、五穀豊穣をもたらす役割があるとされています。
四天王は増一阿含経(ぞういちあごんきよう)や阿育王経(あいくおうきよう)、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)など多くに登場します。
- 四天王が釈尊のもとに現れて帰依した
- 釈尊の涅槃(ねはん)の後に仏法を守護することを釈尊から託された
- 四天王が釈尊に対し本経を信奉する人々とその国家を守護することを誓った
などが経に書かれています。
毘楼博叉
毘楼博叉(びるばくしゃ)は、須弥山の西方にいる四天王の広目天のことです。悪人を罰して仏心を起こさせます。
広目天は広い目と名前がついている事もあり、あらゆるものを見通せる智慧により人びとを教え導くこと、また、真実を見抜くための「智慧(ちえ)」を人びとに授ける役割があります。
毘沙門天
毘沙門天(びしゃもんてん)は四天王であり、多聞天のことです。ヒンドゥー教のクーベラが元になっているととも言われ、武神として知られています。
四天王像は多くのお寺にあるので最も目にする機会が多い像の一つです。帝釈天の部下的な位置付けで、仏教の須弥山(しゅみせん)の中腹に住み、四方を守っている守護神が四天王です。
- 東方天
とうほうてん、四天王の持国天の別名で、東方を守る - 毘楼勒叉天
びるろくしゃてん、四天王の増長天の別名で、南方を守る - 毘楼博叉天
びるばくしゃてん、四天王の広目天の別名で、西方を守る - 毘沙門天
びしゃもんてん、四天王の多聞天の別名で、七福神の毘沙門天。北方を守り塔を持っている四天王のリーダー格
毘沙門天は元々暗黒界の夜叉鬼神の長。そのため毘沙門天が仏教に帰依することで、多くの毘沙門天の眷属も仏教の帰依し、眷属となっており、毘沙門天関連の二十八部衆なども多くいます。
迦楼羅王
迦楼羅王(かるらおう)は、インド神話のガルダが元になています。仏教の守護神。
- 口から金の火を吹く
- 赤い翼を広げると336万里もある
- 那羅延天の乗り物となることもある
ガルダはヴィシュヌ神の乗り物であり、二十八部衆の那羅延天(ならえんてんならえんてん)はヴィシュヌが元とされています。
迦楼羅王は龍を食べると言われており、仏教において、龍(毒蛇)は煩悩の象徴とされます。
それを常食としている迦楼羅は煩悩(三毒)を喰らう霊鳥として信仰されています。これは同じ二十八部衆の金色孔雀王も同じような解釈がされています。
不動明王背後の炎は迦楼羅の吐く炎や、迦楼羅そのものの姿であるとされ「迦楼羅焔」(かるらえん)と呼ばれる事もあります。
摩和羅女
摩和羅女(まわらにょ)は、地天女と同一視されています。
難陀竜王
難陀龍王(なんだりゅうおう)は八大竜(龍)王の第一番に数えられる龍王。二十八部衆には同じ龍王の沙羯羅竜王(しゃがらりゅうおう)もいます。
二十八部衆ではないですが、八大龍王の跋難陀の兄です。この兄弟龍王を密教の雨乞いの法会で拝みますみます。
婆藪仙人
婆藪仙人(ばすせんにん)は、仏教の護法善神(ごほうぜんじん)。護法善神とは、仏法と仏教徒を守護する主に天部の神々のこと。梵名のヴァス(Vasu)は「財宝」「富」の意味があります。
インド神話の聖仙ヴァシシュタ(財宝に最も富む者)が仏教に取り入れられたとされています。
摩醯首羅王
摩醯首羅王
摩醯首羅王(まけいしゅらおう)はシヴァ神の事で、別名を「大自在天」とも言います。
仏教はバラモン教やヒンドゥー教などの神が混ざってくるので解釈が多々ありますが、宇宙や世界を創造し支配する最高神であり、破壊、破滅を司る神と言われ、大梵天や帝釈天との関わりの深い神です。
毘婆迦羅王
毘婆迦羅王(ひばからおう)は十二神将の毘羯羅大将(びからたいしょう)と同一の神とされています。
ドゥルガーというヒンドゥー教の女神で、シヴァ神の妃です。
シヴァ神妃であるパールヴァティーとも同一視されています。
二十八部衆ではないないですが、象頭の神であるガネーシャの母でもあります。
阿修羅王
阿修羅王(あしゅらおう)は戦闘神で、帝釈天と戦っていましたが、その戦いに負け、釈迦の説法で仏教に帰依します。その後、戦いの罪を懺悔しているため二十八部衆の仏像の中でも唯一武装していない姿になっています。
また、阿修羅の住む世界を阿修羅道(修羅道)といいます。これは、輪廻転生時の6種の世界、つまり生まれ変わる6種類の世界を六道と言い、そのうちの一つが修羅です。そして地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つで総称して「六道」と呼ばれています。
ちなみに修羅場の語源も阿修羅にあります。
帝釈天王
帝釈天
帝釈天王(たいしゃくてんおう)。
梵天(三十三間堂の仏像では大梵天)と一対となっている四天王同様に帝釈天も他のお寺でも割と観られる像の一つで、有名なのは東寺の帝釈天です。有名な理由は帝釈天の像がイケメンだから。
- 帝釈天(たいしゃくてん)は四天王の上司のような位置付け
- 須弥山の頂上に住んでいる
- インドのインドラ神が由来
須弥山(しゅみせん)は仏教以外のインド系宗教でも共通する山で、インドの宗教の世界観に共通して登場します。三十三間堂でもそれぞれの像が配置されています。
また、阿修羅が二十八部衆になる前に戦っており、その戦いに帝釈天が勝利しています。
散脂大将
散脂大将(さんじたいしょう)は夜叉の王です。顔面が裂けて中から別の新しい顔が現れる異相。武装姿で右手を振り上げて剣を持つ。
毘沙門天の眷属です。毘沙門天は多聞天ともいい、四天王のリーダー格。三十三間堂の仏像の中にも二十八部衆として毘沙門天があります。
散脂大将の上司が毘沙門天であり、毘沙門天の上司が帝釈天となります。
満仙人
満仙人(まんせんにん) は毘沙門天の眷属。
摩侯羅王
摩侯羅王(まごらおう)は八部衆で蛇を神格化した神です。そのため三十三間堂の摩侯羅王は髪の部分が蛇になっています。また、楽器を弾いており、八部衆の摩侯羅加で説明した通り音楽の神であることもわかります。
密迹金剛
密迹金剛(みっしゃくこんごう)は、金剛力士の吽形のことで、仁王のうちの一体です。仁王門などの仁王ですが、口を開いた阿形(あぎょう)が金剛、口を閉じた吽(うん)形が力士と呼ばれ仏を警護している鬼神です。
密迹金剛と対をなすのが那羅延堅固(ならえんけんご)で、2神を合わせて仁王と呼ばれます。
風神・雷神像と建仁寺の風神雷神図屏風
風神・雷神像と建仁寺の風神雷神図屏風
二十八部衆とは違う仏像といえば風神と雷神。風神と雷神と言えば同じ京都の建仁寺にある俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が有名です。
そして、建仁寺の風神雷神図屏風のモデルになったと言われているのが三十三間堂の風神雷神像なのです。
- 三十三間堂内の仏像群の両端に風神と雷神の像が在る
- 三十三間堂の風神・雷神の像は、鎌倉彫刻の国宝
- 三十三間堂の風神・雷神の像は、日本の風神雷神像としては最古の木像
三十三間堂の風神・雷神像は、雲座に乗った風神と雷神の仏像です。風神と雷神は古代人のアニミズムから風雨の神として「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰されたとも考えられています。太鼓を打つのが雷神で雷さま、風の袋をかかえたのが風神です。
あとがき
あとがき
三十三間堂の仏像は写真禁止のため、当サイトには写真は載せていませんが、三十三間堂の公式サイトに二十八部衆の写真が並んでいます。仏像を見たい方は公式サイトをどうぞ。名前が違うものがありますが、三十三間堂で時折名前を変えているようです(資料が見つかったなどと想定)。