実は有能!今川義元の評価が一変する起承転結ストーリー
はじめに
今川義元はどんな人か?というと次のようになります。
容貌は、貴族文化を好み、歯をお歯黒で染めたり、髪に香を焚きしめたという話があります。
対照的に実力は「海道一の弓取り」とも言われており、武将としての実力も高く評価され、さらに内政能力や外交能力にも長けた人物でもあります。
また、息子の今川氏真が文武の学習を怠り、犬や鳥を使って遊び呆ける息子を戒めるために、今川義元は「童心をなくせ」と伝えているなど、戦国大名としてしっかりとした心構えがあったようです。
それでは、このような今川義元の人生を幼少期から最期まで簡単に解説していきましょう。
起|名門に生まれ、想定外の出発点
今川義元は、生まれは足利氏の一族。そして4歳で出家してお寺に入ります。なので元々は家督を継ぐ予定ではない立場から始まっています。
しかし兄の死をきっかけに還俗(僧をやめる)し、家中の争いを制して当主となりました。このように義元の人生は、当初は武将として想定されていたものではありませんでした。
- 名門の今川家に生まれた
- 兄がいたので4歳から僧として教育される
- しかし兄が死去し家督争いを制して当主となる
承|有能な大名として成長する今川義元
今川義元は、戦国大名として高い政治力と外交力を発揮しました。内政を安定させ、周辺勢力との関係を整えることで、国を長く安定させることができたからです。
武田氏・北条氏と三国同盟を結び、駿河・遠江・三河を支配。この三河国(愛知県)は攻め取った土地であり、今川家と織田家に挟まれて人質になったのが徳川家康です。
東海地方で勢力を拡大する今川義元は、広くなった国をまとめるために、33ヵ条の今川仮名目録に22か条を追加し法律を整備。これは各戦国大名の手本となるほど質の高い法律でした。
また、和歌や公家文化を重んじるなど、教養ある政治を行い、この時期の今川家は、天下を狙える有力勢力として評価されるまでに至ったのです。
- 甲斐国(山梨県)の武田と同盟を組む
- 相模国(神奈川県)の北条氏康と同盟を組む
- 三河を支配で勢力拡大
- 今川仮名目録で法整備し、政治も良好
転|桶狭間の戦いでまさかの敗北
天下を狙えるほど一大勢力となった今川義元の人生は、桶狭間の戦いで大きく転換します。
1560年、約25000の大軍を率いて上洛を目指して尾張国に進軍。義元は信長の砦を攻め落とし進みますが、雨の日に桶狭間という谷で休憩を取っていたところ、約2500という少数の織田軍に急襲され、義元は戦場で命を落としました。これが有名な桶狭間の戦いです。
この戦いによって、無名に近かった織田信長が一躍注目される存在となります。桶狭間の戦いは、義元個人だけでなく、戦国時代全体の流れを変える出来事となったのでした。
- 尾張に25000の兵で進軍
- 信長に2500の兵で討たれる
- 桶狭間の戦いで戦国時代の流れが変わった
結|敗北から始まる再評価
今川義元は、長い間「桶狭間で敗れた大名」「織田信長の踏み台」として語られてきました。一度の敗北が強く印象づけられ、本来の政治的手腕が十分に評価されなかったからです。
義元の死後、今川家は急速に衰退しましたが、近年では法制度の整備や外交政策の巧みさが見直されています。
今川義元は、単なる敗者ではなく、有能で文化的な戦国大名として再評価されつつあると言えるのではないでしょうか。
おわりに
僧から大名へ、大名から有力大名へ、そして桶狭間で信長に討たれるという今川義元の人生を簡単に説明してきましたがいかがだったでしょうか。
織田信長にばかりが脚光を浴びますが、今川義元は幼少期の徳川家康を人質にしており、この頃の今川家の教育で育った家康がのちに天下を治めることになるため、桶狭間の戦い以外にも徳川家康の下地を作った人物とも言えるのではないでしょうか。
