黒田官兵衛は戦国時代の天才軍師です。三英傑と言われる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、信長には裏切りの疑いをかけられ、秀吉の下では天下統一に大きく貢献。その後家康に対しても上手く立ち回り天下を狙いつつも、子の黒田長政を名のある武将に育て上げた人物です。
このように三英傑を主君とした黒田官兵衛の人生を解説していきます。
黒田官兵衛の人生
それでは黒田官兵衛の幼少期から死去までを、官兵衛が初めに仕えた播磨の
起|小寺政職と黒田官兵衛
起|小寺政職と黒田官兵衛
黒田官兵衛の幼少期から解説すると、まず播磨(兵庫県)の御着城主・
萬吉誕生
兵庫助の元、
官兵衛は城下町のお寺で
官兵衛は和歌が好きな子供で、和歌を全て覚え、和歌から地理を覚えるなど、官兵衛の頭の良さは幼少期から秀でていました。
また、官兵衛の祖父が農民に助けられ出世したため、その恩に報いる形で官兵衛の家族は農民を大切にしていたと言われています。
そんな幸せな幼少期でしたが14歳の時に母が亡くなります。
母の死から軍師の道へ
母の死の悲しみから逃れるために和歌ばかり読む日々を送ります。その中で
これが黒田官兵衛(萬吉)の幼少期です。
まとめると、小寺政職の家臣、小寺兵庫助の子である萬吉は、幸せな生活から母の死により塞ぎ込みます。しかし父や圓満に諭され立ち直り、好きな和歌から兵法書に切り替え軍師としての知識を吸収し、萬吉少年は軍師としての基礎を作ったということです。
青山・土器山の戦い
やがて官兵衛は元服し、官兵衛と名を改め、父と共に小寺政職に仕えることになります。そこから数年後に結婚、そして父から家督を継ぎ姫路城主となります。さらに翌年には松寿(黒田長政)が生まれ、小寺政職の下で着実に黒田家の地盤が固まっていきました。
そのような生活を送り官兵衛が17歳の時、
このような日々を送る中、長篠の戦いで織田信長が鉄砲隊を使い、武田軍に勝利したという情報が小寺政職や官兵衛の耳に入ります。官兵衛は織田信長が天下を取ることを読み、小寺政職を説得し、小寺家共々織田信長の家臣になります。
承|織田信長と黒田官兵衛
承|織田信長と黒田官兵衛
官兵衛が提案し、小寺家は織田家の配下になりましたが、小寺政職は織田信長を裏切り
信長の命令で黒田官兵衛は、荒木村重の有岡城にいる小寺政職の説得に出向きます。その際に信長は官兵衛が裏切らないように子・松寿丸を人質とします。しかし官兵衛は有岡城で幽閉されてしまうのでした。
信長は帰ってこない官兵衛を裏切り者と考え、息子の松寿丸(黒田長政)を処刑するよう羽柴秀吉(豊臣秀吉)らに命令します。
その後、羽柴秀吉により有岡城は攻略され、荒木村重は敗走し、幽閉されていた黒田官兵衛は足が不自由になりながらも救出されます。
そして官兵衛の息子である黒田長政は殺されたことになっていましたが、秀吉の部下、竹中半兵衛によって匿われ、生存していたことがわかります。
このように九死に一生を得た官兵衛とその子・長政でしたが、黒田家の恩人となった竹中半兵衛は既に病死しており、官兵衛はその恩に報いることはできませんでした。
そのため官兵衛は竹中家との縁を深め、半兵衛への感謝を忘れないために、竹中家の家紋である「餅紋(黒餅こくもち)」を黒田家の家紋として使うようになったと言われています。また、のちに半兵衛の息子は黒田家の家臣になるなど、黒田官兵衛と故・竹中半兵衛の縁は深いものになるのでした。
このように絶望的な状況から生還した黒田官兵衛親子は、ここから信長・秀吉の天下取りにその才能を発揮していくことになります。
転|豊臣秀吉と黒田官兵衛
転|豊臣秀吉と黒田官兵衛
織田信長は官兵衛の才能を見抜き、中国地方を担当していた羽柴秀吉の軍師に抜擢します。信長の読みは正しく、秀吉が中国地方の毛利軍と戦う際に備中高松城を水攻めにするという大胆な戦略を成功させます。
中国大返し
しかし、この際本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀の反逆によって自害したことを知ります。
この際に、官兵衛は秀吉に京都にすぐに引き返し天下を取ることを意見するのでした。この提案と秀吉の判断が、秀吉を天下人になるルートに切り替えた重要場面であると言えるでしょう。
さらに山崎の戦いで明智光秀に各大名が味方しないように、信長は生きているというニセ情報を流し大名を疑心暗鬼にする裏工作も官兵衛が行ったと言われています。
その結果、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を倒し天下統一へと進んでいきます。
小田原征伐
その後も各戦いで実力を発揮。さらに秀吉の天下統一の総仕上げとして残った1590年の小田原征伐において、黒田官兵衛(如水)は豊臣秀吉の軍師・側近として小田原城へ無刀・単身で乗り込みます。
これにより北条氏政・氏直親子は降伏。秀吉の天下統一が達成されました。また、北条氏との交渉が上手かったようで北条氏から家宝「日光一文字」を贈られたとされます。
しかし黒田官兵衛の天才的な実力を警戒した秀吉は、黒田官兵衛を豊前へ転封するのでした。
その後秀吉は朝鮮出兵など、国外に目を向けますがその途中で死去。
ここから秀吉亡き後の天下統一の戦である、徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦いが起きるのでした。
結|徳川家康と黒田官兵衛
結|徳川家康と黒田官兵衛
豊臣秀吉が死に、関ケ原の戦いで黒田官兵衛は天下を狙ったと言われています。官兵衛は九州で領土を広げ天下統一を狙っていたとも言われますが、関ケ原の戦いが数時間で終わってしまい、その野望は叶わなかったとも考えられています。
特に、息子の黒田長政が関ケ原の戦いでの活躍し、徳川家康からねぎらわれ接近した話を聞き、のちに「なぜ家康をもう片方の手で刺さなかったのか!」と叱責したという逸話があるのも黒田官兵衛の野望を裏付けるエピソードと言えそうです。
そんな気概のある官兵衛ですが、関ケ原の戦いの4年後に死去し、静かに人生の幕を下ろしました。
黒田官兵衛の概要
生没年月日・家族・特徴
出身:播磨(兵庫県)
生存:1546-1604年(3月20日)(享年59歳)
死因:病死
父親:黒田職隆
息子:黒田長政
特徴:秀吉の部下で竹中半兵衛と合わせて、二兵衛や両兵衛と呼ばれた天才軍師

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