応仁の乱が簡単にわかる人物や原因まとめ

05. 京都と歴史

応仁の乱は室町時代におきます。将軍の後継問題と畠山家の家督争い、山名宗全と細川勝元の権力争いという3つが絡み合った戦乱で、約11年に渡って大規模に京都の街を焼きました。

応仁の乱
  • 畠山義就 VS 畠山政長 の家督争い
  • 日野富子 VS 足利義視 将軍継嗣問題
  • 山名宗全 VS 細川勝元 権力争い

 

この3つの詳細と繋がりがわかるとすぐに応仁の乱がわかります。まずは当時の権力関係から知っていきましょう。

室町時代の権力

室町時代は天皇家もありますが、実質的には足利将軍家を頂点とする武家社会です。このトップである将軍の下に、管領があり、その下に四職という地位がある事がわかると応仁の乱を理解しやすくなります。
将軍→管領→四職 の地位が武家社会の上位にあり、ここの権力争いや家督争い、将軍継嗣問題が応仁の乱の原因になっていくのです。

将軍

鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏を初代とし、応仁の乱で出てくる足利義政は8代目の将軍です。京都にある銀閣寺は足利義政が建てており、政治よりも文化的なものを好んだとも言われている人物です。また、京都の等持院に歴代の足利将軍の像が置かれており、間近で見ることができます。

管領

当時の室町幕府の仕組みは、足利義政を頂点とする将軍があり、その下には管領(かんれい)という足利の血を引くトップ3の家がありました。管領は細川・斯波・畠山の三家だけしかなく、将軍補佐役という幕府のNo.2になれる家が三家あったという事です。この三家は権力争いをしている状態です。

四職

そしてこの三家に近いのが山名宗全という構図です。山名宗全は管領の次の地位である侍所の所司(トップ)で、侍所の所司は山名・赤松・京極・一色の四家に限定されていました。この四家を四職と言います。

畠山家の家督争い

畠山持国の家督相続で、持富 VS 義就

畠山家のトップである持国には正式な子がいなかったため、弟である持富に家督を譲る事になっていました。しかし持国突然、自分の正室ではない女性が生んだ子である義就(よしひろ)に家督を譲ります。これを将軍・足利義政も認めたため畠山家にお家騒動が勃発。

畠山持富の子である弥三郎 VS 義就

畠山持富の子である弥三郎が不満を持ち義就と戦し、弥三郎が勝利します。これにより将軍・足利義政も家督継承を弥三郎に認め畠山家は弥三郎が畠山家ではトップになりました。

畠山家の家督争いの原因は、細川・山名の謀略

この畠山家の家督争いを仕掛けたのは細川勝元と山名宗全とも言われています。細川家は役職的に将軍の次に高い管領であり、山名宗全はそれに次ぐ位置にあり、畠山氏を弱体化させ自分たちの権力強化を図る目的があったとされます。

これを知った将軍・足利義政は細川勝元の家臣を処罰し、山名宗全を隠居させます。

畠山義就 VS 畠山政長 の家督争いが勃発

そして、畠山家の家督争いで負けた畠山義就に家督を戻します。弥三郎は死去し、弟の政長と義就の家督争いが始まります。

これに対し将軍・足利義政は政長に家督継承を認めます。政長と手を組んだのは細川勝元で、管領職を譲る事で政長を操り、権力強化を実現したのです。管領という室町幕府のNo.2を巡って、細川勝元が畠山家を弱体化させれば、No.2の権力を独占できると考えたとも言われています。

そして同盟関係にあった山名宗全も復権しています。

足利家の将軍継嗣問題

足利義政

当時将軍であった足利義政は、後に銀閣寺を造る人です。室町幕府のトップである足利義政は父の急死により8歳で将軍になっており、有力大名たちが権力争いをし、政治を動かす中で成長して行きます。

ちなみに父・足利義教は赤松満祐たちにより嘉吉の変で殺されています。赤松は四職と言われる侍所の所司になれる家柄です(山名宗全などと同列)。

当時足利義政と妻・日野富子との間には子がいなかったため、義政の弟の足利義視(あしかがよしみ)を将軍にするつもりでいました。足利義視は僧になっていましたが、将軍になるために還俗(僧をやめる)しています。ちなみに義視の妻は日野富子の妹です。

しかし、足利義政と日野富子の間に足利義尚(あしかがよしひさ)という子が生まれ、将軍の子である義尚と、将軍の弟である義視の将軍継嗣問題の原因ができてしまうのでした。

まとめ
  • 現役将軍・足利義政 + 妻・日野富子 → 子・義尚を将軍にしたい
  • 次期将軍・足利義視 + 良子 → 義視が将軍になる予定でいる
  • 管領・細川勝元 → 勢力(権力)拡大に使いたい
  • 四職・山名宗全 → 勢力(権力)拡大に使いたい

 

山名宗全

管領は細川・斯波・畠山の三家しかなれませんが、山名宗全は斯波義廉(しばよしかど)に娘を嫁がせており、足利義視を将軍にすることで室町幕府の実験を握ろうとしたと考えられています。

山名宗全は、畠山家の家督争いで京都から出ていった畠山義就(はたけやまよしひろ)を京都に呼び戻し、山名宗全&畠山義就 VS 細川勝元&畠山政長 の対立構図を作ります。

これにより軍事力などから将軍・足利義政は畠山の家督を政長から取り上げ、義就にします。さらに管領職をも罷免され畠山政長は失脚し、細川勝元不利になります。

さらに山名宗全が娘を嫁がせていた斯波義廉が新たに管領となり、山名宗全が実権を握ることに成功します。

そして畠山政長は御霊神社に陣取り、畠山義就と戦をします。将軍・足利義政は畠山家の家督問題として加勢することを禁じましたが、畠山義就の圧勝に終わる戦いに、追い打ちをかけるように山名宗全が畠山政長を攻撃しますがお咎めなし。

これにより畠山政長と同盟関係にあった細川勝元は山名宗全との対立が色濃くなって行きます。

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