竹中半兵衛とは何者か|36歳で戦国時代を動かした天才軍師の生涯

竹中重治(竹中半兵衛)は、戦国時代において「知らぬ顔の半兵衛」と称されるほど冷静沈着でありながら、その短い生涯で数々の伝説的な知略を残した「軍師の中の軍師」です。彼の人生を起承転結で辿り、その実像を解説します。

竹中半兵衛の人生

竹中半兵衛は、中世的な武勇から、知略と調略(誘降)による「戦わずして勝つ」近代的な参謀像を確立した人物です。半兵衛は敵側も含め人的犠牲を最小限に抑えることを重視し、情報戦や心理戦を駆使して無血開城を成功させるなど、数々の天才軍師エピソードがあります。

それでは、天才軍師・竹中半兵衛の人生を解説していきます。

【起】美濃での誕生と家督継承

【起】美濃での誕生と家督継承

天文13年(1544年)、美濃国大御堂で誕生しました。幼少期は虚弱体質で弱々しい子でしたが、読書を好み、諸葛孔明ゆかりの兵法書を読破。さらに剣術も皆伝という文武両道の才を秘めていました。

1556年(弘治2年)には斎藤道三さいとうどうさんとその息子・斎藤義龍さいとうよしたつの戦が勃発。道三は義龍との合戦に負け討死、半兵衛の父・竹中重元たけなかしげもとは敗走します。

その後父・重元の死により17歳で家督を継ぎ菩提山城主となります。そして斉藤義龍急死により斎藤龍興さいとうたつおきに仕え始めました。しかしこの斎藤龍興が酒と色欲に溺れる無能な主君だったのです。

斎藤龍興に変わり弱体化した斎藤家。この状況に織田信長が美濃に侵攻してきます。しかし斎藤龍興の家臣である半兵衛は十面埋伏陣じゅうめんまいふくのじんで信長軍を撃退するなど、天才軍師として斎藤龍興を守るのでした。

ちなみに十面埋伏陣とは三国志でも描かれている戦略で、敵が通る場所に兵を隠し、背後から襲撃する戦法です。難易度は最高レベルであり織田信長もかなりの痛手を負ったと言われています。

【承】稲葉城攻略から隠棲へ

【承】無欲の隠棲

永禄7年(1564年)、半兵衛は、酒色に溺れる主君・龍興をいさめようと思います。また「婦人の如し」と斎藤龍興の家臣(半兵衛の同僚)から小便をかけられ侮辱されます。これらの経緯から半兵衛は龍興を諌め、小便をかけられた屈辱を稲葉山城を奪い取るという形で晴らしたという逸話があります。

これは織田信長も攻略できずにいた難攻不落の稲葉山城をわずか16〜18人の手勢で奪うという天才的軍師のエピソードの一つです。そのため信長から美濃半国の割譲を条件に稲葉山城の譲渡を迫られます。しかしこれを拒否し、半年ほどで斎藤龍興に城を返還して半兵衛は隠棲しました。

その後、浅井長政から3,000貫の禄を賜り客分となりましたが、約1年で辞して再び隠棲の道を選びました。

【転】秀吉との出会いと「二兵衛」の活躍

【転】秀吉との出会いと「二兵衛」の活躍

隠棲する半兵衛に対し、信長の命を受けた秀吉は「三顧の礼」により、半兵衛を迎えようとします。半兵衛は秀吉の人柄や才能を見抜き与力として協力することにします。

その後は秀吉のもとで黒田官兵衛と共に「二兵衛」や「両兵衛」と呼ばれ、姉川、小谷城、長篠、中国攻めなどで天才軍師と言われるほどの活躍しました。

そのエピソードの一つとして天正6年(1578年)には備前八幡山城を調略で落とし、信長から黄金50枚・銀子100両という破格の褒美を賜るなど、信長からの評価も高く活躍を重ねていきます。

【結】黒田官兵衛との友情に殉じた陣中死

【結】黒田官兵衛との友情に殉じた陣中死

このように破竹の勢いで連戦連勝を重ねる羽柴秀吉軍でしたが、ついに竹中半兵衛を失うことになります。1578年に起きた有岡城の戦いと三木合戦が半兵衛衛最後の戦いになります。

有岡城の戦い

有岡城の戦いは、織田信長の家臣・荒木村重あらきむらしげが反乱を起こし、両兵衛の一人・黒田官兵衛が1年も荒木村重に投獄され、さらに君主である織田信長からは裏切り者として認定され官兵衛の息子・松寿丸(のちの黒田長政52万石)を処刑するよう羽柴秀吉に命令が下された戦いです。

三木合戦

三木合戦は羽柴秀吉と別所長治の戦いで、秀吉が播磨国(兵庫県)入りした際、別所長治が三木城に籠城。秀吉軍は2年近く三木城を包囲。この2年近い包囲は竹中半兵衛の策略による兵糧攻めで別所長治側に餓死者が多数出たことから、三木合戦の別名は「三木の干殺しみきのひごろし」と呼ばれ、別所長治の一族が切腹することで終結した竹中半兵衛の天才軍師エピソードの一つです。

有岡城の戦いで裏切り者とされた黒田官兵衛を信じていた竹中半兵衛は、信長の命令に背き官兵衛の息子・松寿丸を秘密裏にかくまいます。織田信長は苛烈な性格で知られているためどれほどのリスクがあったかは想像に難くないものですが、半兵衛は松寿丸をかくまう判断をしたのでした。

そして秀吉をはじめ、明智光秀や滝川一益たきがわかずますら信長の家臣らが有岡城を攻撃。荒木村重は逃亡し、織田軍が勝利することになります。

この有岡城の戦いの勝利により黒田官兵衛は救出され、裏切っていないことが証明されますが、信長は官兵衛の息子松寿丸処刑の命令を出していました。これを見越して松寿丸をかくまっていたのが半兵衛なのでした。

竹中半兵衛は有岡城の戦いと同時期に起きている三木合戦でも天才軍師として計略で秀吉を勝利に導きます。

しかし、天正7年(1579年)、半兵衛は播磨三木城の包囲(三木合戦)中に肺炎が悪化。死期を悟った半兵衛は秀吉からの養生の勧めを断り、「陣中で死ぬ事こそ武士の本望」と告げ、36歳の若さで陣中で没しました。

死の間際まで、謀反を疑われた親友・官兵衛の嫡男(松寿丸)を匿って命を救い友情を貫き通しました。

竹中半兵衛が救った黒田家の親子・黒田官兵衛が秀吉を天下人に押し上げ、松寿丸(黒田長政)が家康から52万石を与えられることになります。

このように竹中半兵衛は36歳という短い人生でしたが、天才軍師として日本の歴史を動かした人物であることがわかります。

竹中半兵衛はどんな人?

竹中半兵衛の性格

竹中半兵衛は美濃の斎藤龍興の家臣で、謀反を起こし、織田信長が攻めあぐねていた難攻不落の稲葉山城をたった16〜18名で攻略した天才軍師です。

その後羽柴秀吉の部下として活躍。その実力は黒田官兵衛と共に「秀吉の両兵衛」として評価され、「今孔明」とも呼ばれました。しかし病気により若くして亡くなります。

竹中半兵衛は短命の天才と言えます。では、竹中半兵衛の言葉をもとにさらに深く人物像を知っていきましょう。

竹中半兵衛の言葉1

「身分不相応の値段で、馬を買ってはならない。」これは高価な馬を買ったっ場合、戦場で馬を惜しみ判断を誤ることを言っており、人間心理を見抜く合理的な性格がうかがえます。

竹中半兵衛の言葉2

「要害がいかに堅固であっても、人の心が一つでなければ、要害堅城も物の用をなさない。」戦はチームプレイだということ。自ら稲葉山城を落としさた際の勝因は少数で人の心が一つであり、斎藤龍興側は人の心が一つではなかったことに由来した言葉で、竹中半兵衛が人をしっかりと見ていたことが分かります。

これは織田信長に仕えず、羽柴秀吉に仕えたことも人を見ていたことの表れと言えます。信長は明智光秀の謀反により自刃し、秀吉は天下を取ったという事実から、半兵衛の先見の明の凄さを表した言葉とも言えるでしょう。この他、織田信長の命に背き、黒田官兵衛の息子・松寿丸を救うなども、半兵衛が人や本質を見抜き、冷静に行動していることがわかります。

竹中半兵衛の言葉3

「ここで小便を漏らしても、軍物語をしている大事な席を立ってはならない。」半兵衛の息子・左京が軍学の講義中にトイレに行こうとした際の言葉。何が大事かということを明確にしていることが分かります。

さらに「人は皆、合戦談を聞く時、大事なことは問わず、聞かないで済むことを質問するから手柄を立てられない。」とも言っており、何が重要なのかを見抜き、感情的になりにくい人物像が見ててきます。

以上から合理的で精神力が高く冷静な性格、そして本質を見抜くような頭の良さがある人物だったことが分かります。

これは竹中半兵衛のあだ名「秀吉の両兵衛」や「今孔明」からも裏打ちされており、当時や後世に三国志の天才軍師・諸葛亮孔明になぞらえて天才軍師として評価されていた人物と言えるでしょう。

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