本多忠勝はどんな人?なぜ最強と言われるのかをエピソードも交え年表解説

08.【歴史】人物

このページでは徳川家康の重臣「本多忠勝」がどんな人であったかを年表やエピソードで簡単に解説していきます。サクサク読めて本多忠勝という人物が把握できる作りに仕上げています。

本多忠勝はどんな人?

徳川四天王の一人で本多忠勝は戦国最強と言われた武将。
なぜ戦国最強と言われたのかというと、50回以上の戦いで一度も怪我をしなかったことからその異名がついたと言われています。
他にも戦国最強の根拠となるエピソードが多々あるため紹介していきます。

各武将からの賞賛エピソード

本多忠勝が戦国最強と言われるゆえんは、各武将からの賞賛の言葉やエピソードが多々あることでも感じられます。

  1. 一言坂の戦いで武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(兜飾り)に本田平八」との狂歌の落書きで称賛
  2. 武田征伐後、織田信長が本多忠勝を「花も実も兼ね備えた武将である」と侍従に紹介
  3. 豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いで「徳川家を滅ぼした際に本多忠勝を生け捕りにし、豊臣の家人にするよう忠勝を討ち取ることを禁じた」

このように戦国時代の大物から称賛される本多忠勝は武器・装具も独特であり、その強さや人柄がわかりやすく反映されています。

本多忠勝の最強説に関わる装具

戦国最強と言われた本多忠勝の武器・装具は、攻撃や身軽さを重視しており、次のような特徴があります。

  1. 忠勝の武器は「天下三名槍」蜻蛉切(とんぼぎり)。蜻蛉切は刃長43.8㎝の笹穂型の大槍。蜻蛉(とんぼ)が穂先にとまった際に真っ二つになったという逸話がある槍
  2. 黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)という鎧の他、自らが葬った敵を弔うため、肩から大数珠を下げていた
  3. 鹿角脇立兜は、脇立を何枚もの和紙を張り合わせて黒漆で塗り固めたもので作り軽くしている

本多忠勝はの武器は「蜻蛉切り」と言われる天下の名槍。そして身軽な鎧兜に大数珠という出立ち。その他に、三国黒(みくにぐろ)という愛馬もいました。三国黒は二代将軍・秀忠から贈られた馬ですが、関ケ原の戦いで島津勢の銃撃で三国黒は死亡しています。

各武将から称賛され、身軽な装具と強力な武器で活躍した本多忠勝。次は彼の人生を年表で紹介していきましょう。

本多忠勝の人生年表

1540年代(本多忠勝少年期)

本多忠勝の少年期は、父の戦死により伯父の家で暮らすことになることが転機となり、その後の人生に影響を与えます。

  1. 1548年(天文17年)三河国で本多忠高の長男・鍋之助として誕生
  2. 1549年(天文18年)父・忠高が戦死し、伯父・忠真のもとで育つ

本多忠勝の父・忠高はどのような人物だったのか?

家康の祖父・松平清康と、父・松平広忠に仕えた松平家の武将。織田方で今川氏と戦っており、小豆坂の戦いでは徳川軍が太原雪斎に勝利しましたが、第三次安城合戦で忠高は死亡します。

伯父・本多忠真とは

父を亡くした本多忠勝は、槍の名手である伯父の本多忠真(ほんだただざね)に引き取られ、読み書きや武士の心得などを教わり、戦では命を救われるなどして育っていきます。

本多忠勝の初陣となる鷲津砦の攻防戦では、忠勝が織田方の武将・山崎多十郎に討ち獲られそうになった際、槍を投げつけて忠勝を救うなどのエピソードもある忠勝の師匠・恩人と言える人物です。

父・忠高、伯父・忠真についてさらに見る(クリックで開閉式解説)
  1. 本多忠勝から見た簡単な相関図は次ようになります。
  2. 「祖父・本多忠豊」 > 「父・忠高」 > 「叔父・忠真」 > 「忠勝」

本多忠高が戦死した第三次安城合戦とは、今川氏の太原雪斎が織田方の三河国拠点である安祥城(あんしょうじ)を攻めた戦いで、本多忠高は眉間に矢を受け死んだと言われています。

本多忠真は、武田信玄に家康が大敗した三方ヶ原の戦いで、家康らを逃すため自ら殿(しんがり)を買って出て討死。旗指物を左右に突き刺し、「ここから後へは一歩も退かぬ」と言い、追走する武田軍に斬り込んだと言われています。

1560年代の本田忠勝は元服・初陣・結婚を経験

1560年代の本多忠勝は10代の青年期。元服・初陣・結婚と人生のイベントが続きます。また、部下もでき、武将として成長していきます。

  1. 1560年(永禄3年)13歳で元服し、大高城兵糧入れで初陣
  2. 1563年(永禄6年)三河一向一揆に徳川方として参戦
  3. 1566年(永禄9年)19歳にして旗本先手役となり与力54騎を附属される
  4. 1569年(永禄12年)、於久の方(正室)と結婚

旗本先手役(はたもとせんてやく)とは?

旗本先手役(はたもとせんてやく)とは、徳川家康が護衛である旗本を、積極的に戦闘に投入した軍の制度です。

旗本と与力とは?(クリックで開閉式解説)
  • 旗本とは、殿と呼ばれる身分で、家格が高く将軍直属のお目見えに参加できる武士のこと。
  • 与力とは、与力が上司、同心が部下で、侍大将に従った地位のこと。

つまり、19歳の本田忠勝に騎馬の与力が54名が部下として配属されたことを意味します。

1570年代の本多忠勝は「姉川の戦い〜長篠の戦い」で名を馳せる

20代になった本多忠勝は数々の戦に参戦し、最強と言われるに相応しいエピソードが出てきます。

  1. 1570年(元亀元年)
    姉川の戦い(織田・徳川VS浅井・朝倉)に参戦
  2. 1572年(元亀3年)
    一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)(武田信玄VS徳川家康)で偵察隊
    三方ヶ原の戦いでは山県昌景隊を撃退
  3. 1573年(天正元年)
    長篠城攻めで榊原康政とともに武田軍を破り、獲得した長篠城を守る
  4. 1575年(天正3年)
    長篠の戦い(織田・徳川VS武田軍)に参戦

本多忠勝の人物像や強さがわかるエピソードとして有名なのが姉川の戦いでの単騎駆け。これは家康本陣に朝倉軍1万が迫った際に、忠勝が一人で馬に乗り突撃したというもの。

忠勝を救おうとする家康軍に勢いがつき、朝倉軍に勝利。この姉川の戦いでは朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎打ちもあり、忠勝の名が上がっていきます。

真柄十郎左衛門とは(クリックで開閉式解説)

姉川の戦いで活躍した真柄十郎左衛門。姉川合戦図屏風に描かれ歴史に残っています。姉川合戦図屏風の中で、やたらと長い刀を持っているのが真柄十郎左衛門です。

  1. 真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうさえもん)は朝倉義景に仕えた戦国時代の武将
  2. 身長約200〜210cm、体重200kgとも言われる大男
  3. 161cm〜約3mほどの大太刀(太郎太刀)を振るったと言われている豪傑

本多忠勝との一騎討ちとは?

単騎駆けし朝倉軍を蹴散らす本多忠勝。猛将・真柄十郎左衛門は徳川を蹴散らす。この二人の武将が一騎討ちとなったエピソード。

この猛将同士の一騎討ちに決着がつかないうちに朝倉軍が撤退。

撤退する仲間を援護すべく、しんがりを買って出た真柄十郎左衛門は、徳川軍を大量に打ち倒しています。しかし、徳川軍12段構えを8段まで蹴散らし進んだところで力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と自ら首を差し出し潔く切られて死去していいます。

本多忠勝と互角に戦った真柄十郎左衛門は、結果として向坂三兄弟(さぎさかさんきょうだい)に討ち取られています。

そして、一言坂の戦いでは、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(兜飾り)に本田平八」と称賛され、武田征伐後には、織田信長から「花も実も兼ね備えた武将である」と紹介されるなど、戦を重ねるごとに活躍し、武名が右肩上がりで有名になっていきます。

ちなみに、1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いで、本多忠勝が武田軍の山県昌景隊を撃退していますが、この山県昌景は武田四天王の一人で、全身を赤い甲冑で揃えた赤備(あかぞなえ)で有名であり、のちに徳川四天王の井伊直政の部下になる人物です。

1580年代、高天井の戦い〜小牧長久手の戦いで昇進

30代の本多忠勝は、さらに戦を重ね活躍し昇進していきます。

  1. 1580年(天正8年)高天神城奪還戦に参戦
  2. 1582年(天正10年)本能寺の変を聞き弱気になる家康を諫め「伊賀越え」を行わせた
  3. 1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いに参戦
  4. 1586年(天正14年)従五位下・中務大輔に叙位・任官される(もしくは天正16年)

伊賀越えは徳川軍にとって大きな賭けであり、その活路を切り開いたのが服部半蔵と本多忠勝です。また、小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いで「徳川家を滅ぼした際に、本多忠勝を生け捕りにし、豊臣の家人にするよう」忠勝を討ち取ることを禁じたほど一目置かれていた話も有名です。

1590年代(10万石)

  1. 1590年(天正18年)家臣団中第2位の10万石が与えられた

家臣団1位は井伊直政で12万石が与えれています。
家臣団2位が本多忠勝と榊原康政の10万石で、この徳川四天王の一人、榊原康政とは仲が良かったと言われています。

1600年代(関ヶ原の戦い)

  1. 1600年(慶長5年)関ケ原の戦いに参戦
  2. 1601年(慶長6年)伊勢国桑名10万石に移される
  3. 1609年(慶長14年)嫡男・忠政に家督譲り隠居
  4. 1610年(慶長15年)三河国田原で徳川秀忠主催の巻狩に同行。同年10月18日に桑名で死去

以上が本多忠勝の一生です。人物像や最強エピソード、そして人生年表などで簡単に解説してきましたがいかがだったでしょうか。

関連知識としてぜひ、本多忠勝の主君である徳川家康の人生年表もご覧ください。

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