豊国神社の3つの見所(唐門・瓢箪・宝物館)と方広寺の鐘

豊国神社 02. 京都の神社

豊国神社入り口

豊国神社(とよくにじんじゃ・ほうこくじんじゃ)は、「豊」の字からなんとなくわかる通り豊臣秀吉ゆかりの神社です。三十三間堂の近くにあり、秀吉が亡くなった際に廟所として建てられた神社です。

廟所とは貴人などの霊を祀った場所のことで、豊臣秀吉などの位の高い人物が亡くなる事を薨去(こうきょ)と言います。なので、貴人が薨去したので廟所を作った、それが豊臣秀吉だったので豊国神社となったという歴史があるわけです。

1. 豊国神社の3つの見どころ

1. 豊国神社の瓢箪(ひょうたん)

豊国神社

豊国神社の中で特徴的なのは唐門と瓢箪(ひょうたん)でしょう。1567年、秀吉が信長の部下だった頃、稲葉山城の攻略にの合図に使ったのが瓢箪で、稲葉山城落城に貢献した功績から信長が秀吉に瓢箪を馬印にする事を認めたのが由来です。

その後、秀吉は 戦に勝つ度に馬印の瓢箪を増やし、次々と戦に勝つ秀吉は、瓢箪を増やしていきました。ここから千成瓢箪と言いわれ、秀吉のトレードマークとして瓢箪が残る神社などもあるという事です。その一つが豊国神社というわけです。

2. 豊国神社の唐門

豊国神社 唐門
唐門(からもん)とは門の屋根の一部が唐破風(からはふ)となっている門のことです。

  • 破風(はふ)とは、屋根の形(造り)の一種で、わかりやすいのが一般家庭の屋根の側面部分。山になっている部分の板。これは破風板とも言われる部分で、雨風防止や防火にも役立つ造り。
  • 唐破風とは、破風の一種で、城や神社、門などに見られる曲線状の破風を言う。日本独自の形で、二条城や豊国神社などが有名。
  • 唐門とは、破風の一種である唐破風の形をしている門を唐門といい、豊国神社の唐門は有名。

3. 宝物館

豊国神社 宝物館

豊国神社の境内の中で、有料で入るようになっている場所が宝物館です。やや薄暗い小さな建物に、豊臣秀吉ゆかりの品々が多く展示されています。

2. 豊臣秀吉とは

豊国神社

豊臣秀吉は日本一出世をした人物です。名前も木下藤吉郎や羽柴秀吉、豊臣秀吉など、出世に従って変わっています。京都の各社寺で見られる豊臣家の家紋も、秀吉の出世と共に変わっています。豊臣に名を改めた秀吉の家紋は、御陽成天皇から送られた「五七桐」というものです。

豊国神社

秀吉は織田信長の部下となり、数々の戦に勝利。その後天下統一目前の織田信長は部下の明智光秀に殺されます。中国地方に遠征し毛利と戦っていた秀吉は急遽、明智光秀を討ちに戻り、明智光秀を討伐。その後信長の元部下たちと戦いながら天下統一を成し遂げます。

天下統一後の秀吉は、国外へ勢力を伸ばそうと、朝鮮半島に侵攻しました。これが文禄・慶長の役(1592〜1598年)で、豊国神社の前にある耳塚(鼻塚)がそのゆかりの塚です。

当時日本は戦功のしるしとして、首を持ち帰っていましたが、文禄・慶長の役では耳や鼻を塩漬けにして持ち帰ったとされています。これを秀吉の命により供養したのが耳塚(鼻塚)です。

豊国神社の手水舎

やがて天下人だった秀吉も死亡しますが、秀吉の死因はわかっていません。天下を統一したので戦死してはおらず、残る記録からは病死というのが濃厚ですが、なんの病気だったのかは不明となっています。

秀吉が亡くなり豊国神社が造られるわけですが、豊国神社の隣にある方広寺が、次の徳川の時代へと移るキッカケになっていきます。下記に豊臣秀吉の人生年表を載せておきます。

3. 豊臣秀吉の人生年表

豊臣秀吉の出世から死、そして豊国大明神に神格化されるまでを解説します。

豊臣秀吉の出世から死まで

  • 15歳 : 秀吉が故郷から旅に出る
  • 18歳 : 尾張で織田信長に仕える
  • 25歳 : ねねと結婚
  • 30歳 : 墨俣城(一夜城)を築く
  • 37歳 : 木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名・長浜城主となる
  • 42歳 : 三木合戦(別所長治に勝利するも竹中半兵衛は病死)
  • 46歳 : 備中高松城の戦い→信長の死→中国大返し→山崎の戦い→清洲会議
  • 47歳 : 賤ヶ岳の戦い(柴田勝家に勝利)、大坂城を築く
  • 49歳 : 関白となり、四国を平定(長曾我部元親に勝利)
  • 51歳 : 九州平定(島津義久に勝利)・聚楽第で大名たちに忠誠を誓わせた
  • 52歳 : 刀狩令により農民から刀・鉄砲を取り上げる
  • 54歳 : 小田原城の戦い・奥州平定により天下統一を成す
  • 56歳 : 文禄の役(朝鮮出兵)
  • 62歳 : 醍醐の花見を開き、同年に死去
  • 豊臣秀吉は死後、豊国大明神として神格化された

豊臣秀吉の死後

  • 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで徳川家康が西軍を破る
  • 1603年徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
  • 朝廷・公家は豊臣秀頼を武家代表と認めている状態
  • 1614年(慶長19年)大坂冬の陣
  • 1615年(慶長20年)大坂夏の陣
  • 徳川家康が上記を起こし豊臣秀頼・淀君を自害に追い込む

4. 方広寺と方広寺鐘銘事件

豊国神社は方広寺というお寺の隣にありますが、この方広寺の鐘は歴史ても有名な鐘なので、観光する際には見てみると良いでしょう。どのような鐘かというと、大坂の陣のキッカケになった鐘ということで方広寺鐘銘事件と言います。

方広寺の鐘

方広寺鐘銘事件がキッカケになる大坂の陣とは、江戸幕府の徳川家康が、前政権の豊臣秀吉の一族を滅亡に追い込んだ事件です。

方広寺

天下人であった豊臣秀吉が亡くなり、その後継者を巡って、徳川家康(東軍) VS 石田三成(西軍) を大将とする関ヶ原の戦い(1600年)が起きました。徳川家康側の東軍が勝ち決着はついたものの、豊臣家は滅ぼされずに残りました。

この残った豊臣家を潰そうと徳川家康が画策したのが方広寺の鐘を使った戦略だったのです。

方広寺の鐘を使った戦略がどういうものかと言うと、方広寺の鐘に書かれている文字の「国家安康」「君臣豊楽」の部分が、徳川家康の家と康を分断していることで、豊臣を君主とし徳川家(家康)を冒瀆するという理屈をつけ、そこから豊臣秀頼や淀殿との関係を悪化させ、キッカケを作って大坂の陣へとつなげていきます。

豊国神社

このように豊国神社と方広寺という、豊臣家にゆかりの深い神社があり、江戸時代初期あたりの歴史が好きな人にはオススメのスポットの一つになっています。

方広寺の境内は狭く、すぐに見終わる規模です。豊国神社の隣にありそのまま移動できるので、両方セットで観光するといいでしょう。

5. 豊国神社・方広寺周辺の観光スポット

豊国神社の前は住宅街になっており、左に進むと京都国立博物館の横を通りながら三十三間堂へと行き着きます。豊国神社からは徒歩数分でつく距離にあります。

周辺1. 京都国立博物館

京都国立博物館

京都国立博物館は三十三間堂の斜め前にある洋風の建物で、休息できる場所もある博物館です。京都の博物館なので仏像も設置されており、間近で巨大な仏像や歴史的な品々をみることができます(時期によって変化はあると思います)。

周辺2. 三十三間堂

三十三間堂

境内は簡素な作りになっており、本堂の周りに池や摂社・末社などがいくつかある造りになっています。本堂の中に入ると、1000体以上の仏像が並ぶ見応えのある仏像群が拝めるので、仏像好きにはおすすめのスポットの一つです。

三十三間堂のページはこちら

周辺3. 養源院・法住寺

養源院

養源院と法住寺は並んである小さなお寺です。三十三間堂の横にあり、どちらも境内は狭いですが、養源院は血天井や俵屋宗達の襖絵や、杉戸絵などが解説付きで見れます。

法住寺は装飾が独特なお寺で、隣に後白河天皇法住寺陵もあります。ちなみに後白河天皇法住寺陵とは、後白河天皇のお墓のことです。

養源院のページはこちら

周辺4. 智積院

智積院は長谷川等伯らが描いた「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」や、名勝庭園の他、境内が広く、明王殿などの大きな建物も見ごたえがあります。たくさんの紫陽花も咲くので紫陽花が咲く頃に行ってみるのも良いかもしれません。

智積院のページはこちら

まとめ

豊国神社前の街並み

京都国立博物館・三十三間堂・養源院・法住寺・智積院などが徒歩で行ける距離にあります。その他、多少歩きますが、新日吉神宮へ行く途中には飲食店もあります。

豊国神社周辺は各観光スポットが密集しているので、徒歩で観光可能です。派手さはそれほどありませんが、豊臣秀吉の影響力が各所に残るようなスポットが多いので、歴史が好きな人にはおすすめかもしれません。興味のあるところに長居しつつ、色々と巡ってみると良いと思います。

また、豊臣秀吉関連では、正室ねねは高台寺圓徳院、醍醐の花見は醍醐寺、山崎の戦いの天王山、聚楽第(現在は無い)など、京都各地にゆかりのスポットがあるので、巡ってみるのもおすすめです。

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